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2008年11月

ネットカルト脱会の勧め(8)

日本では、いまだにカルトに関する明確な定義というものが確立されていませんが、欧米諸国では、かなりはっきりした基準が打ち出されています。

たとえば、フランス。フランスの国民議会ではAlain Gestを委員長とするカルト問題に関する委員会が、1995年にカルトとして認定するための基準を明示しています。

カルトとは、「追随者(信者)から無条件の忠誠を獲得すること、批判的精神を減退させること、倫理、科学、公民、教育など公的に許容されている言論の破壊に関わる心理的な不安定さをもたらす操作を狙っている集団であり、それは個人の自由、健康、教育、民主的な制度に対する危害を及ぼすことに関わっている集団である。」と定義されています。

この報告書によれば、日本の有名な新宗教のいくつかもフランスではカルトとして名指しされています。詳しくは原文を読んでください(英語版or仏語版ですが)。

また、アメリカでは、「自らの利益追求のためにあからさまな欺瞞を行う集団をさし、宗教のみならず、教育及び心理療法、商業、政治の分野においても同様の活動をしている集団はすべて破壊的カルトである」(Hassan,1988)とされています。

フランスの基準では、

①精神的な不安定をもたらす
②法外な金銭的要求を求める性格
③社会からの孤立(家族崩壊、友人や恋人などとの絶縁も含む)
④身体的健康に対する危険
⑤子どもたちを巻き込むこと
⑥多少なりの反社会的な言説を流布すること
⑦法や秩序を混乱させること
⑧訴訟が多いこと
⑨従来の経済的流通とは別のルートを持っている可能性
⑩公的権力に対する浸透しようとする企て

などを行っている集団はすべてカルトと認定されます。この辺はキリスト教文化圏における動きということもあり、それに挑戦する集団をカルトと見なしている部分もあるので、日本での状況にそのまま当てはめることはできませんが、日本ではまだまだカルトに関する認識が甘いといわざるを得ません。

軽い気持ちで情報に接触するところから、心理的な操作が始まることを、スピの初心者は知らないでしょう?無批判に、与えられた情報を鵜呑みにすることから、あなたは「虜」にされているのですよ。

私が現在立ち向かっている教祖や批判しているブログは、フランスの基準でいえばれっきとしたカルトの性格を持っているところばかりです。その勢力が拡大することによって、私たちの社会が脅威にさらされることになると言えるものが、ネオスピ(精神世界)にも出てきているわけです。

営利目的で安易に選別もせず、出版物などを出しているマス・メディアの体質にも問題があるのでは、と私は思います。著作権侵害や悪徳商法の疑いも出ているところもあり、このまま放置しておくと、ますます事態は悪化していくことになるでしょう。

ここで、問題は「信者」が簡単には自分の信念を変えようとはしないところに、カルトの巧妙さがあるのです。権威を持った者に対する「支配−依存」の構造がその根本にあります。

カルトの外にいる人がいくら呼びかけても、一向に彼ら信者が考えを変えないのは、カルト特有の集団心理が働いているためです。以下に、その心理学的根拠をあげていきましょう。

1.権威への服従の心理

アメリカの心理学者、スタンレー・ミルグラムは1974年に権威への服従の心理に関する有名な実験を行っています。

実験の被験者は「学習に及ぼす罰の効果」という表向きの理由で募集された一般の社会人です。被験者は二人ずつ呼び出され、ミルグラム博士から「この実験は記憶と罰の関係を調べるためのものです」と説明されます。

その後くじ引きで「生徒役」と「教師役」を決め、実験室に入ります。くじはあらかじめ被験者が教師役となるように仕組まれており、生徒役は博士の助手になるように決められているのです。

実験の手順は簡単なものです。生徒役は別室で電気イスに座り、教師役は簡単なクイズ(単語の記憶問題)を生徒役に与えます。

生徒役がクイズに間違えると、教師役は罰として生徒役に電気ショックを与えなければならないのです。

生徒に与える電気ショックは、15ボルトから450ボルト(死に至る危険あり)までの30段階があり、生徒役が間違えるたびに1段階ずつ強い電気ショックを与えるようミルグラム博士から指示されます。

実験が始まると、教師役は生徒役が答えを間違えるたびに、電気ショックのレベルを1段階ずつ上げていきます。ショックを与えられた生徒役は、段階ごとに悲鳴をあげたりと演技するのです。「痛い、やめてくれ。」、「俺は心臓が悪いんだ。実験をやめてくれ」、「ギャーーー、心臓が止まりそうだ。もうこれ以上実験には参加したくない!」と……

生徒役の悲痛の声に、教師役は博士に「もう止めた方がいいのでは?」と不安になって提案するが、博士は「どうぞ続けてください。」、「あなたには実験を続ける必要があります」、「生徒役の人には身体的な損傷は残りません。どうぞ続けてください」と実験の続行を指示します。そうるすと、教師役はためらいながらも電気ショックを与え続けるのです。

この実験の結果は、驚くべきものでした。教師役の被験者のうち62.5%が最後のスイッチ450ボルトまで実験を続けたのです。(生徒役の人はもう叫び声も上げていないし、無反応になっているレベル)
 
このように一度、人が権威を持った人の命令システムに組み込まれると、自分の本心でない役割に応じた行動をするようになります。

なぜなら、最終責任者は博士であり、自分は単に博士の指示に従っているだけだと考え、その命令に従うことで実験に貢献しているという満足感が生じているためです。

ミルグラムはこうした、自分は他人の要求を実行しているのだとみなすことを代理状態と呼んでいます。この状態下では命じられている行為についての責任もあまり感じなくなり、自分は命令を果たしただけという弁解をするようになるのです。

まとめておくと、権威組織にはいった個人は、自分自身を自分の目的のために行動しているのではなく、他人の要望を実行している「代理人」と見なすようになる。ひとたび個人が自分の行動をこの観点から考えるようになると、彼の行動および心理状態に深い変化が起こる。

ミルグラム博士は、この状態を「代理状態」(agentic state)と呼びました。それは、個人が自分自身を他人の要望を遂行する代理人と見なしている状態です。この用語は、「主体性」すなわち、個人が自分自身を自分の意志で行動していると見なしている状態と対照的な状態として用いられています。

つまり、実験に参加した人は、自分の主体性や意志を放棄してしまい、実験者のいうことに忠実になることだけに意識が集中しており、「科学の発展のため」に自分が貢献したいるのだという大義名分によって、自分が関わっている状況の意味をすり替えてしまっていたわけです。

さらには、自分は命令に従ったまでであり、人を傷つけたり、殺害しているかも知れない可能性については、責任を感じない「操り人形」になっていたということです。

軍隊や宗教組織では、しばしばこのような論理で、上官や教祖の命令に絶対服従する追従者が現れます。また、軍隊もカルトもそのような「従順な羊」=殺人マシンや集金マシンを製造するためにブートキャンプや各種の行の実践を求めるのです。

代理状態の心理については、オウム真理教の幹部にも同じような兆候が見られています。幹部もまた、教祖の意向を遂行する代理人としての感覚しか持っていませんでした。それに加えて、教祖の命令に服従することが自分たちの修行の成果にもつながるという利己的な欲求も認められています(西田公昭,2001)。

2.預言が外れても信者は信仰を捨てない

これも心理学の分野では有名な研究がありますが、「終末預言」を教義の中に取り入れているカルトの信者が、実際に預言の日に何も起こらなくても、まったく自分たちの信仰を捨てようとはせず、逆に信仰を強化するような情報を集めて教団の結束力が強まったという報告もあります。

自分たちの信念に反する出来事が起こったとしても、他に信仰を強化するような情報を意図的に集めてきて、自分自身を納得させ、こじつけをし、自己正当化を行うことで、預言が外れたことによる矛盾をカバーしようとする心理が信者にはあるのです。

3.賞賛されると信者は信仰を捨てない

カルトの教義を正しい、正義であると信じている人たちに、自分たちが日頃取っている教団への貢献活動、教祖への応援を行い、教祖や仲間から褒められる、激励されるといった経験をすると、信者はますますその信仰を強化してしまいます。人から褒められる、高い評価を受けることは、人間の基本的欲求の1つであり、それが満たされることで、自分の信念や信仰が強められてしまうのです。

4.集団に帰属意識を感じることで信仰が強化される

私たちは、だれしも自分の拠って立つ集団を求めています。孤独でいるよりは、仲間と一緒にいることで、「身内意識」が養われ、集団との一体感が高まるという集団心理が働きます。

したがって、ある人がカルトに入会することで、その集団の一員であるという帰属意識も芽生え、自分が集団のメンバーであることに誇りを感じるようになると、身内の信者との間に連帯感が芽生え、外部の人々や集団とは一線を画して行動しようとする気運が高まるようになるのです。

よそ者や異教徒、社会に対しては敵対的意識が強まり、身内に対してはとても寛容で、そのメンバーであることが自分の拠り所、家族的な雰囲気を持った「ホーム」だという意識が芽生え、非常に団結力が強まります。

このように、一度カルトにはまってしまった人で、現在進行形でその集団にいることで満足している人にとっては、周囲が何を説得しても動じることはありません。そこにいる方が、自分らしく輝いていると思えるような正当化の材料がいくらでも見つかるし、その集団に所属していることで一種の安心感や充実感も芽生えてしまうためです。

以上のことから、私はネットカルトやそれに類する集団に今はまっていて、何も疑問を感じない心理を熟知しているため、そのような人々に脱カルトの勧めはしないと述べてきました。はまっている最中の人には、部外者が何を行っても無駄です。信仰に反する情報は、拒否されたり、記憶されなくなり、信仰に一致する情報だけを追いかけるようになるのです。

5.結論

そこに所属していることで、主観的に幸福であるなら、ご自由にと私は思います。ですが、そこの教えが何か変だ、疑問を感じる、不安だと思うようになった人は、カルトの呪縛が解けかけている人なので、他の選択肢について相談に乗る労は惜しみません。

スピリチュアリティの基本は、特定の組織や教祖、制度、教義にとらわれることなく、自分なりの信念を自律的、自発的、主体的に作り上げていくプロセスです。

そして、別に神懸かりや霊懸かり、神示などにとらわれることなく、自分の生活していくための足場を固め、自分自身と対話して、日常生活の中に「聖」なるものを感じる体験を積むことにこそ、本来の姿があるのです。

私たちスピリチュアリティ研究者は、以下のような信念を持っている人をスピ人だと考えています。

生の神聖さ:スピリチュアルな人は、生が神聖さで満たされており、無宗教的な場面設定においてさえしばしば畏敬、尊敬、および不思議な感覚を経験していると信じる。

彼らは、聖と俗を区分するのではなく、生活のすべてが神聖なものであり、聖なるものは平凡さの中にあると信じている。

スピリチュアルな人は、生活のすべてを神聖化するか、または宗教化することができる。

 

(完)

注1…ここで言及しているネットカルトには、「例の一派」及び信者による布教活動を目的とした「ファン倶楽部」を含むが、ネット上で活動しているカルト的要素を持っているサイトは、他にも見出すことができる。私は現在、それらをすべて念頭に置いている。

注2…宗教を前面に出していないが、波動製品などを買わせ、信者を心理的に操作している団体が北海道にある。これは、宗教カルトと商業カルトの両面を持っている。

唵枳里訶矩娑嚩訶!

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ネットカルト脱会の勧め(7)

さて、ネオスピ(精神世界)では自分の身に降りかかってきた出来事に対して,たとえそれが過酷で辛い出来事であっても,あくまでも前向きに,楽観的な構えを貫くことで切り抜けることができると考えようとする傾向が強いように思われます。

かのネットカルトのブログ主にしても、どのような状況に自分が置かれようが「生かせていただいてありがとう御座います」とお題目を唱えれば、問題は解決するというのですが、果たしてそれは、どんな災難や苦境に立っても無理矢理にでもそう思わなければならない「教義」として、正しいといえるのでしょうか。

このプラス思考が金科玉条のようにもてはやされることになるわけですが,果たして実際の行動面でプラス思考がどのような影響を与えているのでしょうか?私はこういう問題については、心理学のテーマでもあると考えていますので、まず本当にそうなのかどうかデータを集めて検証します。

ここで、私の研究室の学生が以前行った心理学的調査の結果を示しながら考えてみましょう。

心理学では、私たちがストレスに曝されたときに、どのようにしてそれを避けようとするかに関する研究があります。それを「ストレス対処行動」と呼んでいます。 

                                                                                                                                                   
ストレス対処行動の例
被支持,協力・援助の依頼・・・「自分の立場を人に理解してもらった。」「人に問題の解決に協力してくれるように頼んだ。」
開き直り・あきらめ・・・「なるようになれと思った。」「どうしようもないのであきらめた」
再検討,努力,計画・・・「状況を思い返し、それを把握した。」,「現在の状況を変えるよう努力した。」,「どうしたらよいか考えた。」
注意の切り替え・問題の価値の切り上げ・・・「今直面している問題から得られるものを捜した。」,「今の経験はためになると思うことにした。」
自己制御・・・「気晴らしや憂さ晴らしになるようなことをした。」,「自信を回復できるようなことをした。」
攻撃、正当化・・・「問題を起こした人を責めた。」,「自分には責任がないと思った。」
待機、静観・・・「状況が変化して何らかの対応ができるようになるのを待った。」,「事の成り行きを見守った。」
情報収集・・・「情報を集めた。」
逃避・・・「現在の状況から逃げた。」
問題の価値の切り下げ・思考回避・・・「ささいなことだと考えた。」や「過ぎ去ったことはくよくよ考えないことにした。」

ここで、個人がプラス思考の傾向をどのくらい持っているかを調べるための心理テストも実施しました。その内容は以下の通りです。

楽観性テスト
①不確かなときは、たいていよい方向に考える。
②いつも物事のよい面を見ようとする。
③自分の将来に関して、楽観的である。
④どんな悪いことにも、よい面があると信じている。

いずれも、プラス思考の代表格になるような考え方ですね。

さて、プラス思考がストレス対処行動にどのような影響を与えるかについて、調査を行ったところ、次のような結果が出てきました。

楽観性(プラス思考)は開き直り・あきらめを増やす。

②楽観性(プラス思考)は問題の価値の切り下げ・思考回避といった消極的な対処を増やす。

したがって、プラス思考は、自分の直面している問題から有効な解決を図ろうとする行動,思考パターンは出て来にくいことが明らかになったわけです。

それでは、辛く、ストレスを感じるような日常生活に対して、どのような信念を持っている方が、建設的にストレス対処行動がとれるのでしょうか?

その答は、以下のような信念を持っている人に見られました。

内的統制の信念テスト

これは,自分の身の回りで起こる出来事を,自分の主体的な意志によってコントロールすることが可能であると信じているかどうかをみるためのテストです。 以下のような項目が調査票に盛り込まれました。そして、自分の意志で出来事をコントロールできると信じているほど,高得点になるように換算されています。

①あなたが幸福になるか不幸になるかは、あなたの努力次第だと思いますか?
②あなたは、努力すれば、どんなことでも自分の力でできると思いますか?
③あなたは、努力すれば立派な人間になれると思いますか?
④あなたは、自分の人生を、自分の意志で決定していると思いますか?
⑤あなたは、一生懸命話せば、誰にでも分かってもらえると思っていますか?
⑥あなたは、自分の一生を思い通りに生きることができると思っていますか?
⑦あなたは、たいていの場合、自分自身で決断した方がよい結果を生むと思いますか?

このような信念の持ち主のことを「内的統制型人間」と心理学では呼んでいます。

調査の結果、内的統制の信念を持っている人ほど,

①開き直りやあきらめ,逃避,問題の価値の切り下げ・思考回避と言った消極的なストレス対処行動をしなくなる。

②再検討・計画・努力,注意の切り替え・問題の価値の切り上げ,情報収集といった積極的,能動的なストレス対処行動を採用する傾が見られたのです。

さらに,興味深いことに,楽観性(プラス思考)は自分の人生に対する満足度,精神的な充実度(生きがいなど)といった個人の主観的な幸福感を強化することが認められました

しかし,内的統制の信念は主観的(心理的)幸福感に対しては影響を与えていませんでした。

以上のデータから,自分が直面している悩みや問題の種に対して行動面で積極的に対処していこうとする傾向は,主に自己責任と自己の主体的な意志を重んじる 内的統制の信念であって,いわゆる楽観性(プラス思考)ではないということが明らかになりました。

プラス思考は確かに主観的な意味での幸福感や生きがい感を強 める傾向が認められましたが,行動面では問題に対して開き直ったり,あきらめたりし,思考面では問題の認識を自我防衛的に切り下げたり,深く問題を考えないと いった形でしか対応しない習慣を強化してしまっている,ということなのです。

このデータによって、ネオスピ(精神世界)の説いている<金科玉条>の限界が浮き彫りになりました。主観的に今の自分を幸せだと言い聞かせることはできても,具体的な問題解決のためのアクションと成果を伴わなければ,それはただの自己満足以外の何者でもありません。

また,主観的に幸福であると感じている状態は,必ずしも外的,客観的にそれが体現された自己実現者,自己超越者としての自分を必ずしも保証するものではありません。

実際に自分が抱えている問題や悩みと向き合い,これを克服するために努力をしていこうという思考習慣の背景には,「自己責任」の自覚が要件の1 つであることが,データ的にも示されたと言えるわけです。

ネットカルトで説かれている「感謝行」については、「ありがとう」の意味から取り違えている面も見受けられます。ありがとうという言葉の語源は、形容詞「有り難い」の連用形「有り難く」であり、本来は「滅多にない」、「珍しくて貴重だ」という意味からきています。

それを何かにつけ、多用することは感謝の希釈化を意味しています。特に、人生の中で最大の困難や、辛い出来事の繰り返し、悲劇に遭遇したときにでも、素直に「ありがとうございます。」って言えますか?それは人間の喜怒哀楽の感情がもっている生物学的機能を無視した行いであり、逆に不自然な感情の抑圧を生み出す根拠になります。

私たち、スピリチュアリティ研究者の立場からは、悲劇的な出来事に対するスピリチュアリティの問題は、次のように説明されています。そこには、単なるプラス思考のかけらさえも認められません。

悲劇性への気づき:スピリチュアルな人は人間存在に関わる悲劇の真実、厳粛さに気づいている。彼らは、人間の苦痛、苦しみ、および死に深く気づいている。

この自覚は奥行きをスピリチュアルな人に与えて、生に対する実存的な真摯さをもたらす。しかし、多少逆説的にいえば、悲劇性を自覚することにより、スピリチュアルな人は生の喜び、深い理解、価値づけが強化される。

このように、悲劇を通じて、そこから学びと気づきを得て、心のバネを持つようになり、今ここで起こっている出来事を辛いながらも受け入れていくという心構えがスピリチュアリティの高まりに通じるということです。

現実を否認するだけで、自覚を得ず、自己満足で終わりたいならば、ドツボにはまってさあ大変という場面でも、「ありがとうございます。」とお題目を唱えておけばよろしいでしょうが、それで生活が立ち行かなくなり、苦境に立たされることがあっても気にならないようでしたら、ご自由に。

でも、そのような信念を社会に普及させるような行動は、私たちの社会秩序を攪乱する行為になるので、慎んでいただきたいと思います。明らかに社会秩序を乱したり、法を逸脱するような「運動」に巻き込まれるのは、圧倒的多数の日本人が望んでもいないことですから。

思想・信教の自由も社会的秩序に反するレベルになったとき、そのような自由は容認されることはありません。むしろ、規制の対象になることでしょう。そのときは、一定の社会的責任を「教祖」も「信者」も問われることになるでしょう。自由と責任はワンセットですから。

ついに、ネットカルトの布教活動をやろうという動きも見られるようになりましたが、そのような「信者」の集まりは、れっきとしたカルトの要件を満たす構造を持つに至ったという証拠になります。それは最近の「精神世界ランキング」の動向を見れば分かることです。

人間、生存本能と安全を求める欲求は、もっとも基本的な欲求です。それさえ、脅かされながらも、なおも「ありがとうございます。」と言える人は、私の眼から見れば、<有り難い>人になります。

唵枳里訶矩娑嚩訶!

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ネットカルト脱会の勧め(6)

読売新聞社が今年5月に実施した世論調査で、何かの宗教を信じている人は26%にとどまり、信じていない人が72%に上ることが分かっています。この数字は、この最近あまり変動がなく、「信仰派」が日本人の約4分の1であるという結果も、大きな変化はありません。

ただ、宗派などを特定しない幅広い意識としての宗教心について聞いたところ、「日本人は宗教心が薄い」と思う人が45%、薄いとは思わない人が49%と見方が大きく割れているのが特徴です。

また、先祖を敬う気持ちを持っている人は94%に達し、「自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがある」という人も56%と多数 を占めています。

以上の結果から、多くの日本人は、特定の宗派からは距離を置くものの、人知を超えた何ものかに対する敬虔さを大切に考える傾向が強い、と読売新聞社は結論づけています。

ちなみに、死んだ人の魂については、

「生まれ変わる」…30%

「別の世界に行く」…24%

「消滅する」…18%

となっています。

日本人の多くは、その信念の根本に「祖先崇拝」、「自然信仰」といった縄文、弥生時代以来の宗教意識(スピリチュアリティ)を持っているといえるのです。それは人々が特定の宗教や信仰を持っていなくても、生活文化の中に溶け込んだ形で私たちが漠然と信じている「精神的な土壌」であると私は考えています。

その土壌に、それぞれが種をまき、水をやり、やがて大きな実をつける<大樹>として育てていく心の姿勢さえできれば、それがマイ宗教、マイ・ゴッドになります。自分だけの大樹を育てていくことが、私のいうスピな道のりになると考えています。その樹は人によって様々な姿をしているはずで、種類が異なっていても構いません。どれが素晴らしいとか、劣っているということもなく、それぞれが育てた樹がかけがえのない、光るものを持っているのだと私は思います。

さて、私は心理学者として、「スピリチュアリティ」と世間でいう「スピリチュアル」を区別して捉えています。まず、そこから分けて説明しておきましょう。

世間でいう「スピリチュアル」とは、自分の前世や守護霊、オーラなど、目に見えない霊的なものとのつながりによって、心の安らぎを得る「スピリチュアル」のことです。精神世界=ネオスピも基本的には、この意味での「スピリチュアル」を標榜しているわけです。

これに対し、林 貴啓(2008)によれば、心理学・心理臨床はもとより、哲学、宗教学、社会学、教育、医療、福祉などさまざまな領域で「スピリチュアリティ」を論じてきた人たちの立場が、こうした言葉の背後に押しやられつつある、という指摘をしています。

私も含めていえば、従来の宗教が扱ってきたような事柄―神仏や霊など人間を超えた力の存在から、人生の意味、死生観、自己の存在根拠までを包括した言葉が「スピリチュアリティ」なのであって、それは形容詞を名詞にしてしまった「スピリチュアル」とはかなり意味が異なっています。

林氏によれば、「スピリチュアル」および「スピリチュアリティ」について言及した諸言説を参照してみると、

①「スピリチュアル」のみに言及する…一般メディアの言説に多い、例えば香山リカ『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』, 幻冬舎, 2006.

②「スピリチュアリティ」にのみ言及する…世の「スピリチュアル・ブーム」を考慮外に置いた「スピリチュアリティ」の議論

③両者を単純に一括する…①に近く、一般メディアにやはり多い

④一定の批判的視座のもとで両者を関連づける

といったタイプが見られるとしています。

その上で、量的には明らかに①に属する言説が多く、「スピリチュアリティ」の流れのほうは省みられなかったり、せいぜい③のように背景に押しやられていたりすることも目立つ。

④の視点は宗教学研究者に比較的多く見られるが、「スピリチュアリティ」の見地から「スピリチュアル」を位置づけなおす試みは、さらに望まれるところである。

と主張しているわけです。

まとめると、世間でいう「スピリチュアル」は、ほとんどがマス・メディアによって作られた「イメージ」でしかなく、<江原啓之ブランド>のなせる業だと断言してもかまいません。それがスピの本質だと思っている人が意外に多数いるようで、これではなかなか議論がかみ合わないし、すれ違いが生じてしまいます。

現在、ネットには実に多くの「スピリチュアル」に関する情報に満ちあふれていますが、その内容には「スピリチュアリティ」研究者の眼から見ても、明らかに間違った情報や論理の破綻している情報が多く、その類の情報にばかり触れていると、私たちが古来より受け継いできた精神的土壌を汚染してしまうものにもぶつかります。そういう事態は避けたいと私は考えています。

要するに、安易に「スピリチュアル」を追求すると、逆に「スピリチュアリティ」から遠ざかってしまう可能性も出てくるのです。

そこで、まずは「スピリチュアリティ」に関する書籍をしっかりと読んでいただきたい、というのが私の希望です。以下に、私の推薦する本を紹介します。これらは、いずれも「スピリチュアリティ」について深い示唆に富んだものばかりです。

読書は、自分の思考力を高め、良書に触れることは、自分自身を向上させるきっかけになります。もちろん、スピリチュアリティは頭(理性)だけで分かればいい問題ではなく、感性で分かることが求められるものですが、本を読まないよりも読んだ方が、確実に考える力が身につきます。考える力が身につけば、本物と偽物を見分ける選別眼も養われるようになります。

このことは、スピな実践を求める人々についても同様で、良書に触れながら、理論と実践の両方を身につけていく基礎作りから始めることが肝心です。スピ系の学会には、基礎からスピな実践や技法に触れることのできる、初心者向けのワークショップも提供されています。安価&安心してスピな実践に取り組める、しっかりした指導を受けるオプションも用意されているのです。

スピ系学会の中には、広く一般市民にも門戸を開いているところがあります。そういうところから入っていく道もあることを知ってください。

唵枳里訶矩娑嚩訶!

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「スピリチュアリティ」参考文献一覧(順不同)

湯浅泰雄(編) 2003 スピリチュアリティの現在 人文書院

湯浅泰雄 2004哲学の誕生 人文書院

湯浅泰雄他(監修) 2005 科学とスピリチュアリティの時代 ビイング・ネット・プレス

樫尾直樹 2002 スピリチュアリティを生きる せりか書房

樫尾直樹編 2006 アジアのスピリチュアリティ 勉誠出版

伊藤雅之 2003 現代社会とスピリチュアリティ 渓水社

伊藤雅之・樫尾直樹・弓山達也編 2004 スピリチュアリティの社会学 世界思想社

安藤治・湯浅泰雄(共編) 2007 スピリチュアリティの心理学 せせらぎ出版

安藤治 2003 心理療法としての仏教 法蔵館

中川吉晴 2005 ホリスティック臨床教育学 せせらぎ出版

大下大圓 2005 癒し癒されるスピリチュアルケア 医学書院

ダライ・ラマ14世 2001 ダライ・ラマ自伝 文春文庫

V.E.フランクル 1999 生きる意味を求めて 春秋社

葉室頼昭 1999 神道と日本人 春秋社

イアン・スティーブンソン 2005 前世を記憶する子どもたち2 日本教文社

上田紀行 2004 がんばれ仏教 NHKブックス

エドガール・モラン 1993 祖国地球 法政大学出版局

学研 2002 宗教と民族(改訂版) 学習研究社

トーマス・アームストロング 1996 光を放つ子どもたち 日本教文社

レイチェル・カーソン 1974 沈黙の春 新潮文庫

A.ミンデル 2001 紛争の心理学 講談社

井筒俊彦 1991 意識と本質 岩波文庫

オルダス・ハクスレー 1988 永遠の哲学 平河出版社

鈴木大拙 1972 日本的霊性 岩波文庫

西平直 1997 魂のライフサイクル 東京大学出版会

窪寺俊之 2000 スピリチュアルケア入門 三輪書店

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ネットカルト脱会の勧め(5)

わが国のカルト問題を考えるときに、1つの大きな歴史的転換点となった出来事があります。言わずと知れたオウム事件です。

オウム真理教が行った一連の事件をきっかけに、宗教に対する日本人の意識は、非常に嫌悪的なものになりました。社会から隔絶された集団が何をやらかすか分からないという得体の知れなさから来る不安や危機感ばかりが募るようになったわけです。

私は以前より、カルトに関する問題についてこのように考えてきました。

仮に法律の名の下に1つのカルトの活動を停止させても、それは「対症療法」としての効果しかもたないのであり、人々がなぜ神秘的なものやスピリチュアルと呼ばれているものに関心をいだくようになるのか、その心理的プロセスの理解なくしては、「第2、第3のオウム」がそのうち出てくるようになるだろうと予測していたわけです。そして、残念なことに、私が予測していたとおりの事態が起こっています。

カルトに参加する人がすべて社会からの落ちこぼれであり、「帰る場所をもたない人々」であるがゆえに、一刻も早く「矯正」を施す必要があるといった発想にも、問題があると私は考えてきました。

カルトを脱会した元信者に対する「心のケア」の問題は、オウム事件以降その重要性が叫ばれるようになっています。というのも、カルトの元信者の性急な社会復帰はしばしば挫折し、敗北感を強めるといわれており、家族やケアに関わる人々が焦らず、長期的なカウンセリングを継続することが必要だと言われています。

特に元信者の周囲の者に要求されるのは、彼らがカルトの被害者であるという認識に立った温かい包容力と、彼らの「求道者」としてのプライドを尊重する態度であるといいます。

そう言われつつも、実際は次から次へと新手のカルトが泡のように出ては消えていっている現状を私は憂慮します。オウムの教訓は決して活かされているとはいえないと私は思います。

カルトに傾倒した人々には、多かれ少なかれ今の社会システム、さらにはその背後にある価値観そのものに対する疑問と厭世的気分が看て取れます。

そもそも彼らは現代の社会システムに息苦しさなり、虚しさを感じ、自らの信じた理想を実現するために「世捨て人」の道を選んだわけではないでしょうか。言い方を換えると、自らを深く見つめ、磨くことを通じて、この世界も変えていこうという純粋で真摯な動機もカルトの信者にはみられると私は感じてきました。。

彼らの霊的欲求(Spiritual Needs)を十分に満たすことのできる場がこの社会の中には用意されていなかった、あるいはそういう場を彼らは見つけることができなかったことがカルトに遭難するきっかけになるのだろうと私は思います。

以前、私が大学教員をしていたときに、カルトを脱会したという学生が訪ねてきたことがあります。私が担当していた心理学の授業を受講しており、そこでマインド・コントロールに関する講義を聴いて、カルトの元信者としてどうしても自分の体験を話したくなったからだというのです。

その学生が私に語ってくれたカルトの中での生活の様子はすでにこのブログでも取り上げたマインド・コントロールに関する記述とほとんど一致していました。

ただ、この学生は途中でそのカルトの教義についていけなくなり、2度も「脱走」を企てたのです。

1度目はすぐにみつかって連れ戻されたけれども、2度目は一瞬の隙をついて支部に1台しかおいていなかったという電話を使って外部の友人に連絡を取ってそばまで迎えにきてもらい、その友人宅に1ヶ月ほど居候して身を潜め、教団からの追跡を逃れることができたといいます。その間、家族とも一切連絡を取らないようにして、息を潜めていたそうです。

私は学生に何が自分をカルトに駆り立てたと思うか、たずねてみました。彼が入信したカルトには孤独を癒し、自分の価値を認めてくれる「きょうだい」がいたというのです。

彼の自己探求心や自己向上心を満たしてくれる充実感も入信当初はありました。そういった受容体験なり人格陶冶のためのぶつかり合いを大学の内外での友人関係の中では得ることができなかったとも言ってました。

彼は「こちらの世界」では浮いた存在だったといいました。彼はそもそも思想や哲学に関心をもっていたのですが、大学に進学してこういった話題をもちだすのは野暮ったいと敬遠される雰囲気があったわけです。

仲間内では異性や車、遊びに関する話題に花が咲いており、毎日がおもしろおかしければそれでよいという「現状流されムード」にこの学生は違和感を覚えたわけです。

今時の大学生は、さらに刹那的になり、どんどん幼児化していますけれども。

そして、一人で悶々としているときに、たまたま学外で見知らぬ人物から声をかけられました。ビデオでも見に行かないかと誘われ、他にすることもなかったのでついていったと言います。そうして、行き着いた先がカルトの出先機関だったわけです。

カルトによっては巧みなマインドコントロールと集団による妄想の共有によって社会と激しく摩擦を起こし、大きな脅威をもたらす可能性があることは否定できません。

しかし、この社会の中に失われてしまったものがカルトという「あちらの世界」には用意されていたわけです。それがたとえ見せかけだけのものだったにせよ、自分らしさを見失い、生きている実感が伴わずに虚しさだけを感じている人々には新鮮なメッセージに映ったのでしょう。

最後に、オウム真理教の元出家信者の言葉を記しておきましょう。

どうして多くの若い人々がオウムに魅きつけられたのでしょうか? ボクの場合は世の中に対する不満からでした。「この世は理想とかけ離れている」─金を持っている人間が偉そうにして、人々は自分の欲望を満たすために足の引っ張りあいをしている汚い社会。

思いやりや優しさなどは大切にされず、成績ばかりを重視する学校(いじめは増え続けていますし……)。すべてぶっ壊したいと思っていました。どうしてこんな世の中になってしまったんだろう?機械化され、物質ばかりがあり余って、何万円もする服を着て……。

世界には飢えで苦しみ泣いている人々がたくさんいるのに、日本では「おいしくないから食べない」なんて…。絶対どこかズレてしまっている、と思っていました。新しい世界をつくるしかないと。

ある意味、真面目にこの世界のことを考えて悩み、純粋に生きる道を求めてさすらった人たちが、カルトにはまっていったわけです。だから、私はそういう人たちのことを非難したり、責める気にはなりません。

本当に非難されるべきは、こうした人々を搾取して、集金マシンに仕立て上げ、「闇組織」とのつながりを後ろ盾にして、勢力拡張を目指していこうとする代表者(教祖)とその幹部です。

唵枳里訶矩娑嚩訶!

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浪速の学会(私のライブ込み)

2泊3日の予定で、浪速での学会に参加してきた。実質的に、私が足を運んだのは二日目の本番のみだったが、まったくシンポジウムでの準備もできていない状態で、原稿が仕上がったのは、発表当日の午前3時。朝から座長(司会)を頼まれていたため、毎度毎度の事ながらほとんど寝ていない状態で、当日会場に向かったのであった。

今回は人体科学会がメインの開催で、日本トランスパーソナル心理学/精神医学会(JATP)は、付録のような位置づけになっていた感もあったのだが、これには私自身思うところがある。

本来ならば、今年度のJATP学術大会は愛媛で行う予定だったからだ。その辺の借りを返し、私なりに償いをするという意味で私は浪速に向かったのだった。本当なら、JATPを四国の地でやることで、私は職を辞するつもりでいたわけだけど、昨年来の体調不良により断念せざるを得なかった経緯もある。

さて、午前の部ではJATPの研究発表の座長をやり、4件の研究について司会・進行をしたわけだけど、大学院生の研究についてはやはり教育的な見地で物言いをつけたくなり、発表会終了後に、本人と研究計画と今後の展開についていくつか建設的なアドバイスをしておいた。瞑想と認知的&情動的共感性との関連に関する研究だったので、もし私がこのテーマで研究をやるならと言う視点で、要因配置計画について指摘しておきたかったわけ。

午前のセッションが終わって、愛媛時代の教え子たちと昼食をとり、しばらくの間ブレークタイム。午後3時からのシンポジウム『「生き方の問題」をめぐる学問の探究とスピリチュアルな実践』に備えて、原稿の確認とプレゼン(MacBookProにインストしたKeynote08でいつもプレゼンを作っている。パワポは嫌い)の修正を直前までやっていた。

そうこうしていると、JATP会長と副会長がお出ましになったので、しばらくの間雑談モード。
廊下でシンポの打ち合わせをやるといういかにもアバウト&超いい加減モードで話し合ったのだった。

シンポの持ち時間が15分程度と言うことで、私は「精神世界の闇」の問題について、最近のネオスピの動向をふまえながら論じた。十分に用意していた原稿を語り尽くせなかったが、ライブで語り尽くせなかったことは、学会誌で特集論文として加筆修正して掲載することになるだろう。

精神世界のカルト化の動きやネットを使ったカルトの動向について、スピ系本流の学会として組織的な行動を取ることができないかという提案を行ったが、議論を行う時間が持てずに不完全燃焼の感が残っている。

少なくとも、ネオスピの暗部を照らし出し、スピ関心層にアピールできるような多くのオプションをJATPから提供することが可能である。もちろん、それは学術的根拠に基づいたワークなり、セラピーでもあるため、自分に合ったものを探し出すことも可能である。しかも、学会が提供することのできるスピな道というものは、まったくの素人でも安全に取り組めるものであり、人心を惑わすような行為は公の組織として決して行うことはないと断言できるだろう。

組織的に、学術的にスピを研究&実践している人々が、本物のスピを求める世間の人々に対して行うことのできる社会貢献の仕方はあると私は考えている。世間で言うところのスピとは、また違った、しかし地に足のついたスピリチュアルなアプローチを紹介したり、カルトについて迷ったり、不安を感じたり、疑問に思った人たちの相談に乗ることは可能だと私は考えている。

私個人の力ではできないことでも、組織の力になれば対応可能だと思っている。

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浪速に行く

明日より浪速で学会が開催されるので出張に行ってきます。現在、学会の準備に集中しているため、こちらのブログの更新はしばらくの間ストップします。

学会のブログはこちらをどうぞ。プログラム等も掲載されています。

浪速で会える人、楽しみにしています。

では、みなさん、しばらくの間ごきげんよう。

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ネットカルト脱会の勧め(4)

私たちの持っている信念や意見には、その社会の中で「常識」、「自明の理」であるとされているようなものが含まれています。たとえば、「毎食後、歯を磨いた方がよい」という見解は、私たちの社会の中で疑問の余地なく広く受け入れられている信念です。

ところが、このような常識や自明の理は、その根拠まで疑うことのない信念であるがゆえに、無菌状態になっており、それに対する反論や攻撃に対して「免疫力」を持っていないという意外な性質があります。

伊勢白山道をはじめとする「ネットカルト」からのメッセージは、私たち日本人の素朴な宗教意識、あまりにも当たり前すぎて疑う余地のなかった宗教的な信念に対する反論や攻撃に満ちあふれています。いくらトンデモな言説でも、自明の理を突き崩すだけの力はあるのです。

それゆえ、多くの人々がネットカルトからの情報に触れることで、簡単にこれまでの信念や意見を捨て、一生懸命になって伊勢白山道の提唱する霊的実践を鵜呑みにしてしまったのではないでしょうか。

では、自明の理に対する攻撃に免疫力や抵抗力をつけるにはどうすればいいのでしょうか?

1.あらかじめ自明の理を否定するような反論を読んでおく。

2.つぎに、その反論を論破するような言説、情報を読んで、自明の理を再び結論づける。

という手順を踏む必要があります。

これによって、自明の理でさえも反論を受ける可能性があることを私たちは学習し、自分の信念を強めるきっかけを得ることができます。

つまり、伊勢白山道の場合で言えば、それに関するブログや本ばかりを読むのではなく、それを検証したり、批判するサイトや情報源にも目を通して、本来の自分の信念を見つめ直し、「やっぱり自分の考えは正しかったんだ」という自己確認をすることです。そうすれば、意表を突くような反論に対する「予防接種」になります。

結論:一方の情報源だけに接触するのではなく、それに対する反論や批判的な情報源にもふれるようにしていけば、迷いはなくなります。風邪をこじらせて肺炎になる前に、信念の予防接種を受けておきましょう。

唵枳里訶矩娑嚩訶!

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リンクの追加

ネットカルト検証サイトのカテゴリを作成し、リンクに新しく「検証伊勢白山道・ネットカルトワクチン」を追加しました。

うちとしても、何らかの形で後方支援に回りたいと思っています。

とくかく、今の精神世界は魑魅魍魎だらけ。そのくせ、ヘタレ&根性なしばかりで、相手にもならない輩が多いのですが、伊勢白山道に対しては、今しばらくの間多元的な視点で検証を入れる必要を私も感じています。

Aという教義にたいして、Bの教義が正しいと自分の教義に誘導するのではなく、A以外にどのような選択肢、オプションがありうるのかを示唆できるようなサイトに成長していってもらいたいと思っています。

ある意味、ニュートラルな立場で統制の効いたサイトになる可能性を持っていますので、どうぞこのブログの帯右上をクリックしてご覧になってみてください。

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心霊戦(その2)

北海道のカルト教祖に告ぐ

わしはお主の腕など認めておらんよ。以前の記事で、お主には「腕がない」ということを書いたわけじゃよ。最初から勝負になっておらん。お主に憑いておる化け物眷属はすでに「絶滅危惧種」に認定されておるわ。

はっきりいって、レベルが違うのじゃ。

もう少し手応えのある相手かと思ったが、「心霊戦」というにはお話しにならないレベルだったわ。なので、もはや勝った負けたの問題ではなく、最初から相手にならないのじゃ。

それが証拠に、ある人間がお主の所に電話を入れたところ、まともにサシで話もできぬではないか?迷惑電話や迷惑メールが多いとかで、弁護士に相手にしてはならんといわれているとか言って、ガチャンと電話を切ったじゃろ?

ふーん、それほど普段から苦情が多いという意味かのう?

どちらにしても、代表者たるもの、「教祖」たるものが、普通に人と話もできないようではその人格自体を疑うわい。

お主は教祖の器ではない。人間でもない。人間以下じゃ。人間なら堂々と表に出てきて、人間の言葉を使って会話というものをやってみい。逃げ回っておるだけじゃ話もできんわ。ろくに会話もできないものなど代表者の資格もないし、それ以前に人間じゃないわ。畜生以下じゃ。動物の方がまだちゃんとコミュニケーションしとるぞ。魑魅魍魎とはお主のことをさすのじゃ。

文句があるなら、人間の言葉をしゃべってみい。表に出てきて、堂々と対話をしてみい。お主は人間の言葉を知らないと見た。そこまで化け物眷属に侵されて、もう「うなり声」しか出せなくなっておるのか?

ということで、わしはお主のことを今後このブログで取り上げることなどない。

このブログを読んでいる読者の方、これが「教祖様」の実態でござる。信者もそろそろ見切りをつけて、脱会するのがよろしい。わしも精神世界に蠢く数々の闇をこのサイトで暴いてきたが、北海道民よ早く目をさませ!こんな妖怪と付き合う理由などないじゃろ?

被害にあったという人、泣き寝入りは無用じゃ。カルト被害者は団結して魑魅魍魎に立ち向かうべし。今がその時じゃよ。

以上 魔王★クラウザー

唵枳里訶矩娑嚩訶!

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「祈りの力」(その4)

次作「祈りの力」の原稿が上がってきたので、脚注などを補完して2週間ほどかけて、加筆修正を行うことになっています。なかなかディープなネタが満載の原稿に仕上がっていますね。

また、今週末より関西大学で、人体科学会と日本トランスパーソナル心理学/精神医学会があるため、座長やシンポジストとして23日にフル回転する予定です。会える人は大阪で爆裂飲み会をやりましょう。

世間ではスピリチュアリティに関する誤解がすっかり広まっているので、私のライブに来ていただければ、その辺の系統的、学術的な意味もすっきり整理して理解できると思います。

両学会とも一般の人にも開放的な学会で、決して敷居は高くないので、これを機に本格的なスピリチュアリティについて学ぼうというきっかけになればと思っています。妄言、妄説とは無関係なスピについて知っておくことも必要ですよ。

唵枳里訶矩娑嚩訶!

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The Who 参拝

心霊戦の最中と言うことで、色んな激励やら心配の言葉をいただいていますが、わたしゃ、まったく被曝もしてませんし、どこやらの化け物眷属にも喰われてもおりませんので、ご心配なく。

I'm O.K.Babe!

昨日になりましたが、邪気払いを兼ねて、またまたロック巡礼に行ってきました。今回の参拝は英国のロックバンド、The Whoです。The Whoが来日しているので、さいたまスーパーアリーナまでライブを見にいってきました。まさか日本に来るとは思っていなかったので、ここは生を観ておこうかと。。。

このバンドは60年代から活動しているバンドなので、ビートルズとかと同世代なのですが、60歳を過ぎてもなおパワフルなステージを見て鳥肌ものでした。昔ながらの英国のロックのビート、あのバイブレーションは素晴らしいものです。

オリジナルメンバーは、ロジャー・ダルトリーとピート・タウンゼントしか残っていませんけど(残りはすでに故人)、ロジャーのマイクグルグル回しと、ピートのウィンド・ミル奏法のギター・テクニックもたっぷりと見ることができて、すっかり化け物眷属も落ちてしまいました(ていうか、最初からノープロブレムでやんす)。

ちなみに、ドラムを担当しているのは、ビートルズのリンゴ・スターの息子、ザック・スターキーで、彼のドラミングの正確さは父親譲りだなあとか思って聞き惚れていました。バンドは6人編成でした。

ライブは2時間近くやってくれましたが、自分的には本編最後で「Won't Get Fooled Again」が聴けたのと、アンコールで「Pinball Wizard」をやってくれたので、もう思い残すことはないかな。。。(´▽`)はぁぁ・・♪(うっとり)

彼らの年齢からしても、おそらくこれが拝めるのも最後かなと思って、見れるうちに見ておこうと思った次第です。にしても、ピートは悪ガキがそのままジジイになった感じで、愛嬌もありました。

実は、日本最終公演(19日)の武道館のチケットもゲットしていたのですが、私用で行けなくなり、知人のミュージシャンに譲りました。ロック好きなら一度は生で見ておかねばならんだろうということで。

プロモーターが今後、日本に呼ぶバンドのアンケートをしていたので、一覧を持って帰ったのですが、来年以降ビッグなバンドが来るかもしれません。

AC/DC、クイーン、デヴィッド・ボウィ、YES、シカゴ、ボストン、イーグルス、ジェネシス、、ポール・マッカートニー、エアロスミス、ジャーニーあたりも候補に挙がっているようです。これが全部来てくれることを祈念していますけど(爆)

自分的には基本がプログレ志向なので、YES,ジェネシスあたりを狙っていますが、デヴィッド・ボウィあたりもFCに入っているので、来日すれば是非見にいきたいと思っています。

いや〜音魂っていいものですね〜〜

今年のロック巡礼はこれにて予定終了。来年はColdPlay単独来日公演を皮切りに、どんどん参拝に行きまっせ。

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心霊戦(Psychic Wars)

しばらくの間、記事の更新をストップする。他の記事でコメントもいただいているが、しばらくお待ちください。

というのも、これまでに何度かこのブログでも言及したことのある、北海道のカルトの女教祖が宣戦布告をしてきたので、四国拝み屋の流儀に従いこちらも受けて立ち、心霊戦に突入した。

相手方には数百体の化け物のような姿をした眷属?が憑いているが、中でも目立つのは龍蛇神、オサキ狐、そして即身成仏したミイラである。ミイラを眷属のように使うのは珍しい。これは研究材料にもなる。他にも、鵺のようなものも飛ばしてきている。

日本のミイラに関する情報源はこちら

ふだんは、そのような眷属で自分の周囲にシールドを張っている。呪詛をかけるときは、その眷属?を飛ばして、相手の心身に大きなダメージを与える。

が、すでに片っ端から撃墜、撃破している。

なので勝負はついたも同然だが、降伏せずに徹底抗戦を行うならば玉砕覚悟でやればよい。無駄な抵抗はやめよ。どうなっても知らんぞ。

ということで、現在戦時下にあり、取り込み中につき、落ち着いた頃にまた仕切り直して記事をアップする。

女性自立支援の会と称して、実はカルト。きわめて悪質な手法を使っている。その1つが呪術の悪用である。北海道の精神世界系カルトのダークサイドがこれから暴かれていくことであろう。

己のこれまでやってきたことがすべて己に返っていくぞ。術を使って、大勢の人々を巻き添えにし、何人も廃人に追い込み、泣き寝入りさせてきた報いを受けることになるだろう。

唵枳里訶矩娑嚩訶!

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ネットカルト脱会の勧め(3)

ここで、宗教とインターネット(以下ネットと略記します)の関連性について、実証的なデータを紹介しておこうと思います。

渡辺 光一・河野 昌広(2007)「価値志向性が情報コミュニケーションに与える効果の実証的研究」 というタイトルの論文が日本社会情報学会誌に掲載されているのですが、その研究で行われた調査の結果を見ると、宗教に対して肯定的な人々のネットとの付き合い方、関わり方について特徴が出ています。

この研究では、ネットを利用している男女756名(25歳ー44歳)に対して、まず宗教に対する態度を調べています。

「あなたは宗教にどの程度関心がありますか。」という質問について

1.信仰者・・・現在、信仰を持っている→全体の10%
2.関心者・・・信仰は持っていないが、宗教には関心がある→全体の12%
3.無関心者・・・信仰は持っていなくて、宗教にも関心がない→全体の56%
4.嫌悪者・・・信仰は持っていなくて、宗教には嫌悪感がある→22%

という4つのタイプの人々に分類することができました。ほぼ、この回答結果が現代日本人の宗教に対する態度(意見)の分布を正確に表していると考えられる結果です。

1と2のタイプを「宗教ポジティブ層」(22%)、3と4のタイプを「宗教ネガティブ層」(78%)と名づけることもできます。

そして、2のタイプの人々が、いわゆるスピなことに関心を持っている人々であると解釈することもでき、これを狭い意味での「スピ関心層」と見なすことができるわけです。

このような分類に基づいて、渡辺・河野はネットの利用状況について質問をしています。ここでいうネットとは、グループウェア、知識管理システム、メーリングリスト、掲示板・ニュースグループ、Weblog(ブログ)・Wiki・日記サイトなどのコミュニティシステムのことをさしています。

調査の結果分かったことは

1)参加しているコミュニティシステムのコンテンツを週1回以上チェックしているのは、全体の平均(40.7%)に対して、「関心者」(スピ関心者)の54.4%が該当しており、彼らの過半数が比較的ネットへのアクセスを頻繁にしている傾向が認められました。

2)参加しているコミュニティシステムに月1回以上書き込んでいるのは、全体の32.0%に対して、「関心者」では45.6%と高く、逆に「嫌悪者」では29.2%と低いことが分かりました。

3)人間関係のネットワーク:

*様々なタイプの人と幅広く付き合う方だと答えた人は、「信仰者」(50.0%)>「関心者」(42.2%)>「無関心者」(34.8%)>「嫌悪者」(28.6%)

*話題や考え方を自分なりに工夫して表現する方だと答えた人は、「関心者」(54.4%)>「信仰者」(50.0%)>「嫌悪者」(42.9%)>無関心者(37.0%)

となっていて、宗教=「口べたで付き合いの狭いオタク」というイメージに反する結果が出ています。

4)ネットの有効性に関する認識

情報を得たり、意見を交換するのにネットは有効な手段だと思いますか。という質問に対して、「信仰や宗教に関する情報」が有効だと認識している人は、全体ではわずかに4.8%でしたが、「関心者」では14.4%と特に高くなっており、「信仰者」の中でも布教活動の経験を持っている「布教的信仰者」になると、23.5%と高いことが分かりました。

このことから、宗教には関心があるものの、教団や組織の中で語り合う機会のない「関心者」は、リアルなコミュニケーションの代わりに、ネットでのバーチャルなコミュニケーションに対するニーズが強いといえます。

また、布教的信仰者の場合は、教団内でのリアルなコミュニケーションにとどまらず、ネット上でも積極的にコミュニケーションをする意向を持っていると言えます。

以上のようなデータから、スピ関心層の特徴を推論することができます。

特定の信仰は持っていないが、宗教に関心のある人々の場合、信仰や宗教に関する情報の交換、取得をネットを通じて行っていることが最大の特徴です。

いってみれば、スピリチュアルなコミュニケーションをネット上で交わすことで、霊的欲求を満たそうとしている姿が見て取れるわけです。また、信仰や宗教に関する情報・意見の交換をすること自体に彼らは価値を見出している傾向もあり、そういう場がネット上にあれば、これを積極的に活用していこうとする姿勢が見えます。

もう1つ、この研究で浮き彫りになったことは、ネット上での不毛な発言者・情報源は無視し、価値ある発言者・情報源を選んでみる人は、「関心者」にもっとも多く(47.8%)、情報の選別に敏感であるという結果です。

この結果を見る限り、スピ関心層とも言える人々は、ネット上での情報選別をはっきり行う傾向が出ているわけですが、そこにネットカルトがはびこる一因が、逆にあるのかもしれません。

積極的な布教者=「布教的信仰者」は、ネット自体の利用頻度が低いにもかかわらず、ネットを信仰や宗教に関する情報の交換の場として重視していることから分かるように、信仰に関するアドバイスや相談などの行為については、日常的な人間関係の延長としてネットの有効性を認めています。

そこで、考えられることですが、「関心者」が「布教的信仰者」とネット上で情報の交換する場を持つことで、一気に特定の信仰や宗教が広まる可能性を持っていることになるのかもしれません。宗教ポジティブ層は総じて、対人的、社会的情報発信力の高い人が多いようですから、上手に言葉を使えば一気に大勢の信者を獲得することができるのかもしれないわけです。

以上のことから、「関心者」の人にはネット上での霊的欲求の充足だけでなく、リアルな関係を通した情報の交換の場が、特定の宗教や信仰に偏ることなく提供される必要があるのではないか?と私は思います。

あるいは、ネット上でも宗教的なバイアスの少ない、統制の効いた場で情報の交換が行われる場の構築も必要だと思うのですが、いかがでしょうか?

(続く)

唵枳里訶矩娑嚩訶!

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リンクの削除

私のブログからのリンクの削除作業を昨日すべて完了しました。余計な詮索をリンク先のサイトに回したくない事と、迷惑をかけたくないという気持ちからです。

このブログが再開された当初と現在とでは、私を取り巻く環境が大きく変わってしまいました。アクセス数の増大に伴って、周囲を巻き込む形になるのはいささか心苦しいので、削除を実行した次第です。他意はありませんので、よろしくお願い申し上げます。

以上

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ネットカルト脱会の勧め(2)

さて、私たちには、「人生の意味と目的」を探求し、「死んだらどうなるか?」について知りたいという欲求があります。なぜ、自分は生まれてきたのか?何のために生きているのか?生きていることにはどのような意味があるのか?そして、自分が死んだ後に何が待ち受けているのか、といったことを知りたいという欲求です。

これを霊的欲求(Spiritual Needs)と呼びます。

霊的欲求=哲学的欲求+宗教的欲求

哲学的欲求とは…人生の意義や意味を求めることです。すなわち、生きる事、死ぬ事、働く事、楽しむ事、苦しむ事、悲しむ事、無力である事、孤独である事、疎外されていること等の意味付けです。

宗教的欲求とは…超自然の存在や神、永遠の生命、死後の世界、天国と地獄、魂や霊の働き、祈ること、希望、良心、罪や罪悪感、罪の許し、感謝と賛美、のようなものについて知ろうと望むことです。   

以前なら、このような事柄について既存の宗教が様々な教義、教理を立てて、人々の霊的欲求を満たす役割を担ってきました。仏教、キリスト教、イスラム教、世界中の宗教の中に「生きる意味」と「死後の問題」に関する答と救済のための手立てが説かれています。

ところが、現代の日本人は宗教そのものに対する関わりが非常に薄く、冠婚葬祭や人生儀礼的な所で、部分的な関わりしか持っていない人がほとんどです。宗教に関心を持っている人は20%〜30%程度にとどまっているという世論調査の結果も出ており、日本人の多数は、宗教に対して無関心であるか、さらに宗教を嫌っている人が多いということです。

でも、いくら宗教に解決の糸口や救済の手立てを見いだせないといっても、私たちには合理的な世界を越えた領域に関する霊的な欲求があります。

この欲求を満たす場所が宗教ではないとすれば、宗教以外の場を求めてさ迷う人々が出てくるわけです。

特に、以前は何らかの信仰や宗教を持ってはいたけど、それに限界を感じて辞めたとか、宗教には救いの力がないと確信した人々は、自分探しや癒しを求めてさすらうことになります。

その受け皿になっているのが、新霊性文化&運動(ネオスピ)になっているわけです。日本ではいわゆる精神世界ということになります。

ネオスピには、宗教のような組織的な縛りや締め付けも少なく、比較的自由に流動的にあちらこちらを渡り歩いて、自分の性にあったものを探すことができます。しかし、一方でネオスピにはカルトの温床になりうる可能性を持ったものも少なくはありません。

ネオスピの持っている特徴については、このブログの過去の記事に詳しく書いてあるので、ブログ内を検索して読んでください。

(続く)

参考URL:臨床パストラルケア教育研修センター

唵枳里訶矩娑嚩訶!

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ネットカルト脱会の勧め(1)

ネットカルトの情報に触れて、「何かおかしい」、「これって大丈夫?」と疑問や不安を感じた人たちに謹んで申し上げます。

神道や仏教など伝統霊性の求心力が弱まり、その霊的救済力、支援力が弱体化したことが、昨今の混乱した社会をもたらしている一因であると私は考えています。

人には誰でも「行動の規範」になるような信念が必要です。それは、自分で自分を律し、自分の言動に責任を持ち、思慮分別をわきまえた大人になるための信念です。その信念の内容は人によって様々であっていいと私は思います。それがスピリチュアルな人間の条件の1つですから。

しかし、良識ある宗教組織や学術的スピに関する言説ならともかく、一体どこの誰だか分からないような存在の矛盾だらけのメッセージを真に受け、それこそが真実と信じ込むのは、果たして内なる神に向かう道なのでしょうか?

その教えを実践してみて、自分は幸せになった、迷いが無くなった、人生が輝いている、生きている実感を取り戻すことができた、以前の自分とはまったく違う自分に生まれ変わることができた、と感じるのなら何も申し上げることはありません。

しかし、「信」の世界というものは、ときとして自分を見失い、精神的な危機に陥ったり、傷ついたりすることも多々あります。

すでに、ネットカルトに関する検証サイトが明らかにしているように、あそこの論理は完全に破綻しています。精神世界系にも色んな言説がありますが、その枠組みから考えてもやっぱりおかしな事を言っているわけです。

ここは1つ、冷静に、客観的に自分自身を見つめ直してみてください。本当に自分はこれでOKなんだろうか?と。

そして、どうしても疑問や不安が残るようなら、そのような情報には一切触れないようにしてみてはいかがでしょうか?外部から流れ込んでくる情報を遮断して、自分自身を振り返る時間を持ってみてはいかがでしょうか?

内省を深めてみて、はじめて気づくことのできる真実というものがあると私は思います。それが、本当の意味での内なる神からのメッセージです。

以後、カルトに関する心理学的研究の知見に基づいて、<脱会の勧め>の記事をアップしていくことにします。

唵枳里訶矩娑嚩訶!

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我が闘争(3)

お祓いの仕事で、伊予に行っていたが、今日戻ってきたので、ボチボチやっていきましょう。

伊予で、教会を巡る環境に関する状況分析を行い、今後の対応について意見交換をして帰ってきた。

1.ある大学人を中心とするグループ:「表」は活動停止、「裏」も静かである。しかし、その取り巻きに不穏な動きも見られるため、引き続き観察の対象とする。

2.北海道の宇宙系カルト:現時点で、私や教会に対する喧嘩は売ってきていない。なので、専守防衛の原則に従って、こちらから動くことはしない。

3.伊勢白山道:こちらも私に対する呪詛はない。喧嘩も売ってきていないので、こちらから動くことはしない。また、「海外筋」という情報がもたらされたため、細心の注意を払って推移を見守る方針に転換した。本日の記事で書いたとおりである。

4.その他:新宗教からの嫌がらせ、呪詛は全くなくなった。ある意味、一番潔いのが新宗教で、喧嘩を売るときには事前に「宣戦布告」をしてくる。「パールハーバー」みたいなことはしない。

ということで、現時点で喧嘩を売っているのは、ある大学人を中心とするグループだけになっている。過去形で書かないのは、その大学人だけではなく、その取り巻き、関係者の動向を十分に観察しているためである。不穏な動きが活発化したら、「リメンバー・パールハーバー」で臨む。

私たちは余計な争いや心霊戦を仕掛ける意図は全くない。しかし、やられたことは必ず何らかの形で返す。私や教会に対して仕掛けられた攻撃を忘れることはない。

唵枳里訶矩娑嚩訶!

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ネットカルトの背景

ネットカルト、伊勢白山道について新たな情報が四国拝み屋のもとにもたらされたので、この場でポイントだけあげておく。

1.これは、一種の反日感情に根ざした思想&宗教破壊工作である。特に、日本の宗教に対する敵愾心、憎悪、嫌悪感に満ちた活動である。

2.日本人のグループによる活動ではない。外国の組織によるサポートを受けたものである。

3.これは外国の組織的な謀略によるものであり、わが国の伝統霊性を根底から潰し、日本の社会を破壊する企みである。

上記のポイントについて、彼らの背景に関する一定の核心に迫る情報をつかんだので、以後伊勢白山道とその支援者たちをまともに相手にすることはない。

また、この者たちに扇動されたり、妄信する者達に対して、私たち四国の拝み屋は何らの援助も行わない。それは自業自得というものである。今の日本人には、何らの精神的支柱もない状態であり、そこにつけ込んだ陰謀である。ただ、おかしいと気づいたり、自覚が出てきた人に対しては個々のケースに応じて、対応することはあり得る。

本日を以て、伊勢白山道に対する一方的な反論、非難を私は停止する。ただし、細心の注意をもって観察は続けるので、ピンポイントで検証サイトや批判者に対して助言、助力することはあり得る。私は検証&審神サイトなどで引き続き、言説分析をされることは必要と考える。しかし、その背景に関する情報に基づいて私たち四国の拝み屋は、伊勢白山道を無視することにする。

いずれ、事実関係が白日の下にさらされる時期が来るであろう。

信者たちは一刻も早く、このネットカルトの欺瞞に気づく必要があろう。信者は単に踊らされているだけである。早く目をさましてもらいたい。

以上

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古代呪術の歴史と真理(その3)

次に、神社の歴史について述べておこう。

神社が今のように常設の神殿を持つようになったのは神道の歴史の中では比較的新しく,7世紀後半,天武天皇の時代からの話である。681年,天武朝は畿内および全国に向けて,天社,国社の神の宮を新造,修理せよとの命令を発している。

常設の神殿を設置するということは,神殿内に神さまに常駐してもらうということであり,人間側の都合でいつでも神さまに願掛けしたり,神託をもらったりできる体制にしようということである。

しかし,それ以前の神社には本殿や神殿,社の類は常置されていなかったのである。仮設神殿を建てて,春や秋の祭の時にだけ神さまを呼んできて,祭が終わったらお帰り願うというスタイルであり,神は神社には常駐していなかった。

社(ヤシロ)というのは,今では常設の神の宮,神殿,社殿の意味になっているが,その語源は「ヤ=屋」+「シロ=領域」であり,神の座を建てるために設置された特別な場所のことで,必ずしも常置されるものではない。ヤシロは「神地」という意味だった。

では,祭の時以外に,神さまはどこにいると考えられていたのだろうか?万葉集には<社>を<モリ>と詠ませる例が認められる。

社=モリ=>杜=>森

すなわち,森の中に神の領域;ヤシロはあったことを意味する。これが鎮守森の原型である。神社には今でも森がつきものであるが,これは神殿の中ではなく,周囲に広がっている森の中に神さまはいらっしゃるという観念に基づくものである。

さらに,榊<サカキ>とは,俗界と聖界を分け隔てる「境界=サカの木」という意味である。古墳時代の祭祀では聖域として,生け垣を作り,生の樹木を垣根のように囲い並べて境界線を作ることで,その中に神を迎えた。これを<ヒモロギ>という。

また,ヒモロギとイワサカはワンセットである。イワサカ=<磐,境>とは,石を並べて囲い,その真ん中に神が降り立つと考えられた聖域である。

こういう祭祀法は古墳時代における原神道の祭祀法であり,宗像大社の高宮祭場に今でも残っている。

天の岩戸の神話で,天照大神が岩戸の中に隠れてしまったときに,アメノウズメノミコトらが唄って踊ってドンチャン騒ぎをやったときの祭場には,岩戸の前に榊を植え,榊に鏡をかけています。これは岩陰祭祀と呼ばれる祭祀法で,6世紀から7世紀にかけての神祀りのやり方である。宗像大社の沖津宮遺跡の発掘で確認されたものであり,神話の記述が正しいことを示している。

Iwasaka 写真:福岡県,宗像大社の高宮祭場。木々で囲まれた領域がヒモロギ,石で囲まれた領域がイワサカである

そこから遡ると,4世紀から5世紀までは岩上祭祀といって巨岩の上に小石を四角に置いてイワサカを形成し,その前に鏡,ガラス玉,石玉などの装身具や刀剣類を捧げている。
つまり,古墳時代の祭祀は,縄文以来の巨岩信仰,磐座信仰から出発し,次第に岩陰,岩場から離れた露天での祭祀に変化していく。自然抜きには古代信仰は語れないのである。

ヒモロギ,イワサカの他には,イワクラ,カムナビの概念もあった。イワクラは神の降り立つ磐,寄りIwakura代のことであり,カムナビは神の住まう山のことである。

写真:大神神社境内にある磐座神社。神祇信仰は岩石信仰をルーツの1つにもつ。

要するに,神道の原型は,自然物を通じて感じられる<隠れ身の神性>への畏敬の念だったわけである。具体的なモノの背後に感じられるインスピレーション,聖なるものの感覚である。当時は、モノ=魂と日本人は考えていた。

Otsuka

写真:伏見稲荷山:下の社のご神蹟(白菊大神)。稲荷信仰の中でもお塚信仰は、古代の岩石信仰の名残を表している。

大神神社には今でも本殿がないが,それは三輪山自体がご神体だからである。明治になったときに大神神社は国に神殿を建てたいと要請しているが,逆に国から却下されており,神体山信仰がそれほど定着していたことを示している。

(続く)

唵枳里訶矩娑嚩訶!

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古代呪術の歴史と真理(その2)

つぎに,宗教的心情の起源について論じる。神仏に対する信仰とは,自分を越えた大いなるもの,神仏とでも呼べるような宇宙の働きに対して,畏敬や崇敬の念を持つことから始まる。畏敬の念や崇敬の念は,わたしたちの祖先がまだ大自然の脅威にさらされて細々と暮らしていた頃から培われてきた原始的(素朴な)感情である。

生きること自体が大変だった石器,縄文,弥生の時代を振り返ってみればわかるように,大昔の人々は必死になって生きていたし,自然の猛威の前にただ呆然と立ちつくすだけだった。天災はカミの怒りであると素朴に感じたし,豊かな実りはカミが与えた恵みであると素直に信じ,喜んだ。

生命を育み,維持することの尊さを古代人は知っていた。族長自身が霊媒だったり,族長の参謀として必ずシャーマンがいたりして,一族の命運を掛けて住むべき土地,農耕にまつわる天候占い,精霊との交信に基づく自然の調整,病気直し,カミを鎮め,カミを奮い立たせる儀礼を行っていた。古代人は現代人よりも感覚が鋭敏であり,超感覚的知覚(透視,テレパシー,予知)も強かったと思われる。自然観,宇宙観もまったく現代人とは異なっていた。

当時の人間は森羅万象に隠れ身のカミの気配を感じており,いつもカミと共に生きているという実感を持っていた。自分たちが喜べばカミも喜ぶ,悲しいとき,辛いときは気持ちを切り替え,奮い立たせるために大騒ぎをする。自然という名のカミと苦楽を共にしていた。自然に対する畏怖の念。自然に生きること。いつ気が変わるかもしれないカミに翻弄されながらも,精一杯生きてきたのが,われわれの祖先の姿なのである。

このように,大昔の人々はいつも自然=カミの振る舞いに一喜一憂しており,ビクビクしながらも精一杯意地を張って生きていた。そういう暮らしの中で,自然に私たちは宗教的感情(心情)を抱くようになっていった。

ここで,古代日本人の信仰について押さえておこう。

1.縄文時代(紀元前1万年-紀元前3世紀)・・・精霊信仰,特に自然霊に崇敬の念をもつ。天体信仰(太陽,月,星),自然の猛威を神の祟りと見なす。蛇信仰。シャーマンの活躍。

2.弥生時代(紀元前3世紀年~西暦3世紀)・・・縄文以来の精霊信仰(特に穀霊,地霊信仰。農耕との関連で)を基盤として祖霊信仰(祖先の霊をカミとして祀る)が上書きされる。部族,共同体の神。共同体を守るための呪術の発達。中国,朝鮮からの渡来文化の影響を受ける。

3.古墳時代(西暦3世紀~西暦7世紀)・・・精霊信仰,祖霊信仰に加えて,首長霊信仰(ヤマトの大王,後の天皇家も含む。国家的なカミ)が成立する。30のクニの連合王権であった邪馬台国から大和朝廷ができ,次第に大王を中心にした国家の体裁が整う。陰陽思想の強い影響を受ける。

このように,信仰の対象が上積みされていって,やがて神道の原型になっていった。

弥生時代以降の日本人(倭人)は今から7000年前に長江下流域で栄えた河姆渡(かぼと)文化の後裔であろう。河姆渡文化は中国最古の稲作定住文化である。河姆渡人は高床式住居に住んでおり,その後に続く倭人と共通する宗教的習俗を持っていた。
河姆渡人の信仰には以下のような特徴が認められる。

河姆渡人の信仰

①神が天下るときの乗り物として鳥を信仰し,鳥形飾りを建物の棟の上に飾った。これが神社の鳥居の原型となる。

②葬制として,死者の頭を東の方角に向けて葬った。東方重視は日本の古代祭祀も同じである。

③女性の墓に副葬品が多い。・・・母系社会

④東方海上の彼方に死後の安楽浄土があると信じた。これは春秋戦国時代以降の中国人にも東方楽土の信念として受け継がれていった。紀元前3世紀,中国を統一した秦の始皇帝は,斉人の徐福(徐市)に命じて,海の向こうにあるという三神山の仙人の国を探検させる。徐福は,童男童女数千人を従えて来航し,日本に定住した。【隋書】には,隋の使節が609年倭国(やまとのくに)に派遣されたときに中国人の居住地<秦王国>を通るとある。今の宇佐か周防と推定される。

⑤太陽に対する強烈な畏敬の念を持っていた。

⑥食人習慣があった。釜の中に魚の骨といっしょに嬰児の骨が混ざって出土している。中国古伝に、最初に生まれた子を食べると次々に子が産まれる、という風習の国ありとの記述がある。

Marukibuneかれら河姆渡人やその子孫が九州に移動していった可能性は十分にある。弥生時代のずっと前から,こういう人々が住み着いて日本人のルーツになったと考えられる。それが海人族(あまぞく)である。対馬はそういうもっとも古い日本の雰囲気を今に伝える島である。

河姆渡文化は良渚(りょうしょ)文化へと受け継がれる。これは紀元前3300年頃から2200年頃まで続く。良渚人は大地の神を信奉し,三種の神器を用いて祭祀を行った。彼らの祭祀は人間の犠牲,すなわち生贄を捧げるものであった。

Ryoshobunka





日本人とも共通する倭族の特徴強烈な太陽崇拝,稲作,高床式住居が倭人の特色であり,河姆渡人はその要素をすべて持ち合わせている。その流れを汲む呉人や越人が次々に移住し,列島は呉越同舟状態で弥生時代へ突入する。

故国中国では国を違えた部族が次々に列島に移住してきた。倭人たちは部族間の闘争,交易の利権争いに明け暮れながら,次第に国家としての体裁を整えるようになっていった。

水稲稲作は縄文時代と弥生時代を分かつ農業技術である。水稲栽培が日本に伝来してきた経路については,最近の考古学的知見により,中国の華中から朝鮮半島を経由して伝来したとする「半島ルート」がほぼ決定的であるといわれている。

より具体的には,九州北部の玄界灘沿岸地域において,縄文時代晩期後半期(紀元前500-300)に発達した水田稲作が行われていたことは事実である。この時期,すでに北九州のみならず,近畿,山陽,南九州など西日本で水田稲作は広がりを見せていた。稲の刈り取りに使われる石包丁の形状や出土した炭化米のDNA分析より,稲作伝来は①山東半島から朝鮮半島中部西岸を経由,②長江下流域から黄海を越え,朝鮮半島南部西岸を経由,という2ルートが中心であると考えられている。

その担い手は渡来人であった。弥生人のルーツは基本的に渡来人である。最近の人類学的知見に依れば,縄文人から弥生人への遺伝学的形質変化は渡来人との混血による急激な変化であったと考えられている。
渡来系弥生人のタイプには大きく2つがある。

①    九州タイプ・・・長身で面長,華奢な体つき。このタイプは,中国山東半島,朝鮮半島から中国東北地区起源

② 西北九州タイプ・・・えらの張った彫りの深い顔立ち。山東半島,朝鮮半島から長江流域起源

渡来系弥生人は家族単位で数艘の船に乗り,数世代にわたって断続的に日本列島にやって来た。その背景には中国大陸での戦国時代の乱と流民の発生,それに連動する朝鮮半島での混乱がある。中国や朝鮮の王家や王家に使えていた人々も亡命してきている。また,国境を越えて交易を行った華僑(商人)の渡来も見逃せない。さらに,灌漑,土木,金属器製造技術を携えた技術者集団が大陸や半島から渡来してきたものと考えられる。

Toraijin


次に,縄文時代の日本の原始信仰を色濃く残している沖縄,奄美諸島の習俗,伝説の分析からは,次のような信仰の特徴を見いだすことができる。

①古代日本人の思考
彼らは,自分の身の回りで観察できる現象,事物からの連想,類推によってカミ,自然,人間を理解しようとした。すなわち,彼らは太陽の運行,人の生死,植物(穀物)の実りと枯死などを信仰,神話,祭りに結びつけていった。

②太陽の運行
原日本人のなかでも南方に起源を持つ「海の民」は太陽に対する畏敬の念を持っていた。南の島で見える太陽は,朝日は暁に咲く大輪の花にたとえられ,水平線の彼方に沈む巨大な夕日は島を瞬時に闇をもたらす畏怖を喚起した。沈んだ夕日は「太陽の洞窟」を通って再び東方に新生すると信じられた。この信仰が,その後中国で形成された道教,陰陽思想と合わさって,神道の源流となる。

③方角の重視
沖縄地方では,東をアガリ,西をイリと呼ぶ。その東方のはるか彼方に常世の国,根の国,<ニライカナイ>がある。ニライカナイには太陽の昇る場所,祖先神,火の神,水の神など神々の居場所があり,一切の生命の種の根源となる場所であると考えられた。

④人間と太陽を結ぶ連想
太陽は東から昇る。人の種も東方,常世の国から渡来する。太陽は毎日新生と消滅を繰り返し,輪廻転生する。人間も同様に輪廻転生し,つまりは太陽も人間もこの世には常在しない(無常)。

輪廻転生の間には「穴」が想定される。太陽の場合は「太陽の洞窟」,人間の場合は生まれるときには「母の胎」,死んだあとには「墓」という疑似母胎の穴に籠もるというように考えられた。

⑤神の概念
古代日本人にとって目に見えず形もないカミは重大な存在だった。カミは基本的に「隠れ身」の存在としてとらえられた。しかし,他方で彼らはこのカミを抽象的なもの,観念的なものとしてではなく,具象,目の前の現象や事物の中に見いだそうとした。そのカミの元型が祖神(オヤガミ)であり,同時に穀神(農耕神)=宇賀神としての蛇であった。  

宇賀神というと稲荷神もそうであるが,原始信仰においては水の神,山の神である蛇がその神の顕現として崇拝された。

Miwayama 蛇はその形から男性性を,脱皮するその生態からは出産=女性性が連想され,古代日本人は蛇を男女の祖先神として崇拝したのである。さらに,祖霊が住まう山(神奈備)を蛇がとぐろを巻いた形として連想的にとらえ,三角錐の山を拝むようになった。大和の三輪山がその一例である。

(続く)

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古代呪術の歴史と真理(その1)

私が伊予国に出張期間中には、外部との情報遮断につきリアルタイムでブログの更新ができない。

なので、ブログの読者サービスとして飽きない程度に「古代呪術」に関する記事を3日分、定刻にアップするように予約しておきました。コメントなどは自由に入れておいてください。また、見られる状況になれば随時、レスもつけたいと思っています。

まずは、その1から…

いってみれば、呪術の歴史は人類の歴史そのものでもある。今から50万年前、北京原人は、すでに遺体を埋葬するときにその周囲に赤い鉄の粉をまくという呪術的行為をしていた。先土器時代、縄文時代、弥生時代と呪術的な営みは連綿と続き、現代にも残っている。

呪術とは大自然の中にあまねく存在している眼には見えないパワーを、呪文(言霊、真言など)や呪具を用いて自然から取り出し、集め、神霊や精霊と一体化することによってそのパワーをコントロールする技術のことである。

このテクノロジーを専門技能として扱うのが呪術師(シャーマン)である。呪術師という職業はおそらく人類最古のものであろう。太古の昔、われわれ人間が大自然の脅威にさらされて細々と生活していた頃、呪術師は共同体の中で知恵者であり、リーダーの役割を持っていた。自然の働きはカミの力の顕れであり、呪術師はカミと人を仲介して自然秩序の調節、個人や共同体の運命の予見を行っていた。天変地異、飢饉、病、事故、死。どうして人間は不幸や不条理に見まわれるのか。その原因を探り、生存に関わる問題を解決しようと試みるのが呪術師の仕事であった。この世の悲しみ、悩み、悪や魔の力に屈することなく、否定的な出来事を消し去る能力をもつ人間が生活共同体には必要であった。

生まれつき備わった予知、透視、テレパシーのような特異な能力、トランス状態に入ることで神霊や精霊と一体化し、その意思を受け取る能力。彼ら呪術師はそのような能力を維持するために日夜修行を行っていた。やがて、彼らは共同体の中で特別な地位を得るようになり、長としてムラやクニを治める者も出てきた。邪馬台国の女王卑弥呼もその1人である。古代日本はシャーマニズムと切っても切れない関係にある。

シャーマニズムとは神と人間との間を呪術師、あるいは巫覡(ふげき)が司り,宗教的儀礼を行うことによって神がかり(トランス)となり,神の託宣を告げる呪術的儀礼のことである。巫覡とは古代中国で活躍した呪術師をさす言葉であり,殷や周の王権に仕えた「巫師」以来,秦/漢の時代にも盛んだったようである。

呪術師は神と人間の宗教的仲介者として独立したものというよりは,「神の意識場」にアクセスして,これと一体化(憑依)することのできるヨリマシであり,特殊な血統および特性を持った人間のことを言う。日本では巫覡のことを巫女(ミコ)というが,これはまさに御子/神子(カミの子ども)という本質を持った人間なのである。

山上によれば,巫女は交戦に際してその呪能を強めるために媚飾を施し,邪霊を払うために邪眼を用い,軍の先頭に立って敵に呪詛を掛け合うという役割を担っていた。また,部族内部の勢力抗争や宮廷内紛,政敵呪詛,妻妾間紛争に巫女の呪術はしばしば用いられた。わが国では平安時代に藤原氏を中心とする宮廷内紛において呪術戦が行われたことは有名である。当時の呪術の「呪」とは「言霊」による呪詛であり,「術」とは「動物霊」を用いるテクノロジーであるとする説も存在する。

日本では明治に廃仏毀釈令が出るまでは,神社の中に寺院があり,神仏が渾然一体とした形で祀られていた。修験道や陰陽道も健在で,わが国独自の宗教的フュージョンが認められた。明治から第二次世界大戦に至るまでの神社と寺院の分離,国家神道化への道は,日本の霊的伝統をズタズタに切り裂き,宗教的心性の貧困をもたらした。仏教の貴重な文化的遺産が失われ,修験道,陰陽道も壊滅的な打撃を被った。さらに、敗戦後はアメリカから大きな文化的影響を受け、日本の伝統的霊性は急速に萎びていった。

そもそも,われわれ日本人は神仏に対してどのような観念や感性を持っていたのか。日本の宗教的心性の源泉,源流はどのようなものなのか。こうした伝統が失われ,霊性の空白期間を作ってしまった今では探求するのも困難を極める。

このブログに掲げる記事は今では失われた日本的スピ(霊性)の本質について,さまざまな文献資料、私の行った現地調査に加え,四国の拝み屋によるサイコメトリー(霊査)を通じて得られた情報をもとに構成されている。

古代日本のカミという語は、西洋のgod, deityの概念に見られるように、超越的、人格的(人称的)性質をもっていない。国学者,本居宣長(1730-1801)によれば「人はもちろん、鳥獣草木のたぐい海山など、そのほか何でも普通以上にすぐれた徳(威力)があって、畏きものをいう」とカミの定義をしている。

日本人の自然崇拝は、山川草木などの自然物を、そのまま神として崇拝したのではなく、そうした自然物に宿る神霊を崇拝する精霊信仰(アニミズム)であった。したがって,日本人の考えるカミとは本来,霊魂、精霊、霊鬼、霊威などの働きを表している。

森羅万象、自然には創造と破壊、荒ぶる力と和らぐ力の繰り返しがある。その自然の摂理の圧倒的な姿の背後に人智を越えた大いなるもの,聖なるものの存在を感じ取るところから、日本の神道は成立していったものと考えられる。

宗教学者の鎌田東二は神道の起源を弥生時代以降の農耕文化に求めようとする従来の神道学説に異議を唱え、旧石器時代以来の存在感覚、宇宙観をベースにして、そこにさまざまな洗練が加わり、縄文、弥生、古墳時代以降のさまざまな文化習合、文化複合を通じて次第に成立していったのが日本の神道であると論じている。したがって、上述したような神道的な感覚は、縄文人や旧石器時代人にもあったという立場をとる。

また、歴史学者の武光誠は日本のカミ信仰は縄文の昔、村落などの一定の広さを持つ土地にいる精霊の集合体であったと述べている。土地にとどまっている祖先の霊や、動植物の霊、居住地近くの川や森の霊などがひとまとまりになって「国魂」と呼ばれる地主神になる。縄文人のカミ感覚とは人間は自力で生きられる存在ではなく、周囲の自然の畏れ多い力によって生かされているというものだった。

このように、カミは豊かな恵みを与えてくれる存在であると同時に、それに逆らえば恐ろしい災難を及ぼす「魔」、「鬼」にもなる。カミの二面性を認めるのが古代日本人の信仰の本質でもあった。この辺が西洋的な善悪の分別、天使と悪魔の決定的な分離の考え方とは異なっている。日本の「魔」は怒らせると鬼になって祟られるが、きちんと祀れば恵みと救いを与えてくれる「神」でもあるのだ。

(続く)

唵枳里訶矩娑嚩訶!

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伊予国に行く(2)

11月7日から9日まで伊予国に行く。祈禱の仕事が入っているためだ。すっかり伊予と板東の往復パターンが定着してしまった感もあるな。

その間、恒例のことだが、外部との連絡は一切遮断するので、このブログもリアルタイムでは更新しません。ただし、ブログ主不在の3日分の記事は予約でアップしておいたので、指定した時刻になれば、新しい記事を目にすることはできると思います。

200件を超える記事をこれまでにアップしているので、他のサイトから来られた方は、その間ゆっくりと色んな記事に目を通していただけたらと思います。

余談だが、伊勢白山道にもいろんな検証サイトが表に出てくるようになり、興味深い内容が読める。検証&審神サイトも「精神世界ランキング」の上位にいるので、私は適宜、そのテーマによっては論陣を張る予定である。それぞれあと2倍くらいの訪問者による応援があれば、「連合軍」としては肩を並べるくらいにまで成長すると思う。

特に、稲荷関係の記事は書かない方が身のためだと忠告しておこう。せいぜい、ボロを出すのがオチだ。

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呪詛打ち返し(その2)

某月の某日、北海道の女教祖から受けた呪詛を打ち返すための最終的な儀礼を執り行った。この者、実家が神社ということもあり、神道の呪術に関する知識は持ち合わせているので、こちらの手の内を明かすことはできない。

Curesers_shrine

 

しかし、私の使う呪術は神道式に限らない、ということだけを覚えておくがよい。四国の民間祈禱師=拝み屋というのは、ありとあらゆる方法について実践的な知識を持っている。私もその1人だということだ。

この者、これまでに多くの人たちを呪詛の犠牲にしている。一人や二人ではない。己のやっている行為が身の破滅をもたらすことを知ってか知らずか、気に入らない者はプライドを保つために、呪をかけてきた。

そのうちの1人が私のスピ弟子だ。彼女はすんでのところを守護するものによって命は救われているものの、その身体的、精神的ダメージは計り知れないものを持っている。ゆえに、私がスピ弟子に最初に伝授したのは、呪詛に対する抵抗力をつけるための修行である。ある程度抵抗力がついてきたら、次に相手に気持ちの面で負けない強い祈りの修行を指導した。

そうでもしなければ、今頃、彼女の命はなくなっていたことであろう。呪詛の詳細については、スピ弟子のサイトを参照されたい。これは作り話ではなく、私のデータベースの中にある様々な呪詛の中でも一番執拗で厄介なタイプの「真性の呪詛」であることを証言しておきたい。私自身も相手方から実際に呪詛を経験しているので、すぐに見分けがつく。

おそらく、この闘いは今日、明日にでも解決するものではない。かなりの長期戦を想定して、霊的防衛網を張り巡らしておかないと、たちまち意識の干渉が生じている。それに打ち勝つには、絶対に負けないという強い信念、理不尽な行いをする者に対しては許さないという決意が必要なのだ。

いっておくが、たとえ中途半端に修得した術でも、術の手順や体系そのものに邪気、邪念を増幅するための仕掛けが組み込まれているため、ある程度の知識さえあれば、誰もが呪詛をかけることができるようになっている。ネットにもその類の情報が氾濫している世の中である。つくづく、おぞましい世の中になったものだと思う。

このケースでは、「幻魔の術」も使っているため、ターゲットの意識をコントロールして、事故死や自殺に見せかけるという企ても行われた。これが成功していれば「完全犯罪」もできるということになる。

人に対する憎しみ、嫉妬や嫉みは、呪詛の原動力になる感情的エネルギーだが、かりにそうやって呪詛が成功したとしても、最後には自分に戻ってくることを覚悟しているのか。呪詛専門の祈祷をおこなってきた人間の末路は本当に哀れなものになることを私はよく知っている。

唵枳里訶矩娑嚩訶!

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憑依と憑き物(その3)

ところで,日本の信仰の中でもっとも古いものが蛇信仰である。古代日本には蛇巫(へびふ)と呼ばれるシャーマンがいた。女性が中心だったのだが、古墳時代になると男性のシャーマンもいたようだ。

古墳の石室の内壁には,よく幾何学模様が描かれている。

三角形が連なったもの…▲▲▲▲▲
菱形…◇◇◇◇
同心円…◎
渦巻…typhoon

こうした文様はすべて蛇の象徴として描かれたものと考えられている。三角形、菱形は蛇の胴体にあるうろこ,縞模様の象徴になる。

古墳から出る埴輪には,ヘビ柄の紋様の衣装を着ている人物がかたどられたものがある。衣装的にも古代人は「蛇を着ていた」ようだ。

古代社会の蛇巫の仕事は共同体の長として,祖霊神である蛇を祭ることにあった。擬態的には、白砂の敷き詰められた神聖な庭に生きた蛇を這わせて,その這った跡を見て占いをしたり、山や海から蛇を捕獲したり、常時蛇を飼育したりしていた。瓶や桶の中に蛇を入れて飼っていたのである。

この風習をもった蛇巫の一族がその後祭祀から離れて凋落していき,憑き物信仰としての「蛇憑き」になっていったと考えられている。中国・四国地方に最近まで残っていた憑き物信仰である。もちろん、これはただの信仰ではなく、人間の想念によってイメージ化されてきたものが集積すると「意識場」となって、今でも蛇憑きの現象を起こすことがある。

また,ご神木や神山も蛇の象徴として崇拝の対象にされていた。植物では、びろう、シュロの木,竹,松,杉,檜も蛇の象徴になる。藤やツタも蛇のシンボルとみなされていた。

杉の木がご神木というケースでは、伏見稲荷大社の稲荷山山中にある傘杉、一本杉、三本杉の社がある。稲荷山も大昔は神奈備として、龍(蛇)神信仰の地だった。それが蛇神を祭っていた名残として残っている。稲荷信仰が狐を眷属にしたのはずっと後のことで、白鳥信仰、龍(蛇)神信仰がその古層には堆積している。それらが重なって稲荷大神の意識場を形作っていると考えた方がいいだろう。

また,縄文,弥生時代には一般的だった竪穴式住居の円錐形のわらぶき屋根も蛇のとぐろを巻いた象徴であり,彼らは象徴的には「蛇の胎内」に暮らしていたことになる。

古言語の面から見ると,「カカ」という音は蛇を意味しており,カガミ=「蛇身」となり、正月に供える鏡餅が蛇のシンボルになることを知っているだろうか?鏡餅のてっぺんにミカンを載せる。あのミカンは蛇の頭を表し,毒蛇を瓶の中に入れて飼い、崇拝していた頃の名残となる。さらに,鏡も蛇の目の輝きという象徴的意味を持っており,弥生人が異常な情熱を持って銅鏡を輸入したり、それを鋳造する技術を取り入れたのも,神である蛇の目の光を拝んでいたためだという説もある。

ちなみに、以前私たちが出雲地方で行った神社サイコメトリーによれば、銅鐸も蛇神を呼ぶための呪具としてうち鳴らしていたものではないかと推定している。

同じように,神道の大祓詞にも「カカ」という音が出てくる。

「・・・此く持ち出で往なば 荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百会に坐す速開都比売と言ふ神 持ち<加加>呑みてむ 此く<加加>呑みてば 気吹戸に坐す気吹戸主と言ふ神 根国 底国に気吹き放ちてむ・・・」

この祝詞の中の「持ち<加加>呑みてむ」 というくだりの「カカ」は蛇がグアッと大口を開けて獲物を飲み込む様子を表す擬音を表している。つまり,速開都比売(はやあきつひめ)という神さまは蛇神ということになる。海の神さまだから海蛇となる。また,厳島神社にお祀りされている宗像三女神も実は蛇身の女神としてイメージされている。

門松,注連飾り,鏡餅など,正月に使う道具はどれも蛇の象徴である。正月は新生あるいは再生の時期にあたる。わたしたち日本人は大晦日から元旦にかけて,生活や意識の切り替えをするが,ヘビも古い皮を脱ぎ捨てて,新しく生まれかわる。その生命力,再生力に畏敬と畏怖を感じて,拝むようになったわけだ。

このように、日本人は元々蛇神を崇敬する風習を持っていた。蛇信仰を原点に持っている国なのである。蛇は神さまの顕れとして丁重にお祀りされてきた。その精神は現代も同じである。今では、その意味が分からなくなっているだけの話で、元を辿っていくと蛇が精神文化の原点にあるのだ。

(完)

参考文献:吉野裕子「蛇-日本の蛇信仰」講談社学術文庫、1999年

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憑依と憑き物(その2)

つぎに、憑依(Possession)について述べていこう。これは、私たち四国の拝み屋の実践的な経験も踏まえて書かれた記事である。

憑依のタイプとしては

1.生者が生者に憑く・・・生き霊憑き
2.死者が生者に憑く・・・死霊憑き
3.生者が動物霊を動かして生者に憑く・・・動物憑き

の3つに大きく分類できる。生霊、死霊については拙著「祈りの研究」に詳述してあるので、ここでは動物霊の憑依について述べる。動物憑きについては,2つのタイプがある。

A.憑き物「使い」・・・憑き物行者こそが憑き物筋であり,憑き物落としはすなわち憑き物使いであると信じられていた。東北,九州に多い信仰。行者は動物霊を召喚し,これを操作して,相手に憑けたり,落としたりする。

B.憑き物「持ち」・・・動物霊が代々家に憑いており,その家に所属する人に憑くと信じられていた。したがって,その家の人から恨まれたり,妬まれたりすると,自動的,無意識的に動物霊が飛んでいって相手にも憑いて害をなすという信仰。中国,四国地方はこのパターンが多い。社会的差別の源泉となった。

でも,「憑きもの」と呼ばれているものは,最初から鬼や魔物ではなかった。つまり本人にとっては神様ということになるが,他人の目から見ると悪いものになることもあるというものである。だから,先祖代々守護神として受け継がれてきたお稲荷様や地主神様をきちんと祀る分には何の害もないのである。

したがって、それが自分や家族の幸福を願うこと以外に、相手を倒す、呪詛するというような方向に向けられるとするならば,それは許し難い行為になる。言ってみれば、個人的な理由(憎しみや嫉妬,強欲)からこうした呪法を行う人間自身が凶悪な憑き物なのだ。

特に、狐憑きについては大きな誤解がある。人体に取り憑き,その人を狂者のように仕立て上げ,霊体が退いた後も憑いた人の身体を侵害して使い物にならなくするなどということは、<野狐>のすることであって、しかも何か遺恨がある相手を悩ませるときの話である。

野狐が憑くと、一時的にその人の勢いが増し、運気も上がるように見えるが、そもそもそれは眷属にさえなれなかったものなので、その代償として失われるものも多い。一気に没落したり、家族全員絶滅という悲惨な運命も待ち受けている。

全体的に見て狐にも,野狐,善狐の種類があって,善狐の中にも金狐,銀狐,白狐,黒狐,天狐の五品がある。狐がだんだん出世して,金狐,銀狐,白狐になるのだろうという世間の噂とは異なっているのである。

もともと白狐は白狐の種,金狐は金狐の種によってできるもので,立身するものはない。五種類の狐は共に善狐の仲間になる。人に取り憑いて悩ませることは,みな野狐のすることであって,善狐の嫌うことである。

狐憑きが野狐の仕業にしても,何かよほどの理由があり,恨みを抱かせるようなことをしなければ,みだりに人間に攻撃を加えることはないということを忘れてはならない。こうしたものを引き寄せてしまう人間の<ダークサイド>にむしろ問題の根があるといえるだろう。己の邪気、邪念の投影には十分注意した方がいいだろう。

参考文献:石塚 尊俊「日本の憑き物」(未來社)、1999年
        吉田 禎吾「日本の憑き物」(中公新書)、1999年


(続く)

唵枳里訶矩娑嚩訶!

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憑依と憑き物(その1)

日本には昔から憑き物信仰があった。関東,中部,東北地方は狐憑き(「オサキ」,「クダ」,「イズナ」)が多く,山陰の 出雲地方の「人狐」,九州南部の「ヤコ(野狐)」にも狐憑き信仰がある。こうした憑き物にはどういう種類があるのだろうか?以下に分類してみよう。

1.キツネ系

a.オサキ(江戸中期以降,1850年頃より記録あり)・・・埼玉県秩父地方を中心に,東は群馬,栃木の一帯から茨城の一部,西は関東山脈を越えて長野県諏訪地方,伊那谷地方まで。

b.クダ(江戸期以降,1789年頃より記録あり)・・・長野が本場。愛知(三河地方),静岡を中心として,山梨も勢力圏。三浦半島,房総半島にも流れていた。

c.イズナ(室町時代より)・・・修験道の行者の専売特許。青森,岩手,山形に残る。岐阜,和歌山にも伝承あり。

d.人狐(江戸期以降,1747年頃より記録あり)・・・島根(出雲地方;隠岐地方),鳥取(伯耆地方)にほぼ限定される。

e.ゲドウ(江戸期以降,1790年より記録あり)・・・広島,山口,島根(石見地方)が中心。厳密には「キツネ」と「イヌガミ」の総称か?

f.ヤコ(野狐は平安期より,憑き物としては不明)・・・英彦山,阿蘇山の修験と関係か?九州の肥前半島,熊本平野,天草諸島,薩摩・大隅,宮崎の一部,壱岐など広範囲。

2.イヌガミ系(室町時代より,1472年頃記録あり)・・・四国が中心。特に徳島&高知。大分,広島,島根も。

3.ヘビ系(室町時代より,1675年頃,1757年記録あり)・・・四国全域。特に香川&愛媛。山陽,山陰。「トウビョウ」と称す。

4.タヌキ系・・・四国,特に徳島。阿波の金長狸と六右衛門狸が全国の狸の総大将となり二派に分かれて戦ったが,讃岐屋島の禿狸の仲介によって和睦したという「狸合戦」の逸話が知られている。一方,伊予狸の総帥は隠神刑部狸であり,勝山を本拠にしていた。

5.ネコ系・・・愛媛(東予地方)。

ここにあげたもの以外に取り憑くと言われているような霊体は日本にはいない。

近畿地方は憑き物信仰の「空白地帯」になっている。近畿ではキツネやヘビなど動物が憑くという信仰はほとんど見られない。考えようによっては,過去には近畿にもあったが,それが地方に伝播していったが,近畿では廃れてしまったのかもしれない。

イヌガミ,ヘビ系は比較的古い部類に属す。イズナはキツネ系の中ではもっとも古いものだが、修験行者の専売特許だった。その他のキツネ憑きはその後に上書きされる形で江戸期以降に広まっているように思われる。

江戸時代の修験行者がこうした信仰を普及させた原動力となっているのは,間違いないように思う。長野県は山岳信仰,修験とのつながりが深いせいか,イズナから転じたクダ,オサキもいるようだ。こうした憑き物を増殖させたのは、修験のもっているダークサイドの表れだろう。

また,関東地方では屋敷神の影響で,稲荷=キツネというステレオタイプ(先入観)ができている。

関東の人が稲荷と聞くとすぐキツネを連想してしまうのも,関東・中部地方が「キツネ憑き文化圏」であることも関係しているのではと思われる。少なくとも、関西(近畿)ではそういう発想自体がないのだ。

室町時代,応仁の乱以後から京都の勧進聖が各地を回って伏見稲荷の神徳を説いて復興のための寄付を募った頃から稲荷信仰が全国各地に普及していった。江戸時代には伏見稲荷の本願所愛染寺の勢力が仏教稲荷を全国に知らしめた。

(続く)

唵枳里訶矩娑嚩訶!

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「祈りの力」(その4)

昨日は、電話でライター氏と2時間近く、「祈りの力」の原稿直しのやりとりをしていた。今週末に編集者氏、ライター氏が愛媛まで観光&加持祈祷を受けに来るので、それまでに原稿のメドをつけたい様子。週末にはどのような状況になっているのか、別の意味で楽しみなのだが。

現時点での「祈りの力」の章立ては以下の通り

第1章 祈りの力
第2章 祈りの理論
第3章 願望をかなえる祈り
第4章 「意志」と「夢」の活用
第5章 祈りをかなえるための意外なコツ
第6章 祈りのダークサイド
第7章 自分に合った神を探す
第8章 現世利益を超えた大きな祈り

かなり内容が変わっている。分量も前著を遥かに越える300ページ越えの分厚さになる模様。特に、第6章「祈りのダークサイド」には非常に力がこもっている。その心は、このブログを読んでいる人にはよく分かると思う。

まだ、私の方での加筆修正が完了していないので、さらに内容の入れ替え、大幅な変更は生じる予定だ。

随時、進捗状況については案内する。

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言霊(ことだま)

新しいブログ「老翁の審神シリーズ」が立ち上がったようで、早速見にいってみた。伊勢白山道の検証ブログの1つである。

言霊に関する言説が検証されていたので、読んでみた。すると、言霊には「賞味期限」があるらしい。これは初耳だ。

言霊とは、言葉に内包された霊力、あるいは言葉をとなえることによって、霊力が発揮されるという考え方をさしており、精霊信仰の一環、また説得的コミュニケーションとして解釈できる日本の精神文化の1つである。

私の実践経験から言わせてもらうと、師匠からさんざん言霊の重要性については言われた。祝詞奏上もしかり、日常生活での言葉もしかりで、一度口から発せられた言葉には「力」がこもっているから、みだりに行使してはならない。さらに、言挙げすることは、そこに人の心を動かす力がこもるものであり、一度出してしまったら取り消しのきかない性質を持っているとも教えられた。

ゆえに、賞味期限など言霊にはない。

すくなくとも、万葉の時代から咒文、咒詞の背後に神の威力が込められていると信じられてきたわけで、そこに賞味期限を設定したとすると、それだけ言葉の意味が軽くなった、つまり何でも言ってもいいことになる。

みだりに行使してはならぬと言われ、肝心要の時にこそ言葉の力を使えと言われてきた私にとっては、これも珍説としか言いようのないことだ。あえて、このような事柄について「言挙げ」をしようという気になったのも、そうした基本的な事項について理解していない者が、「神」の名の下に軽口を叩くようになったご時世を憂いてのことである。

さて、言霊の原理から考えると、不吉な言葉はなるべく口から発しない方がよい。忌み言葉というものが昔からある。否定的な事柄を連想させる言葉の行使を避け、他の表現に変えてしまうことである。

言葉の響きや音にも注意を払う。たとえば、病人の見舞いに訪れるときにシクラメンやサイネリアを避けるというような場合である。

シクラメン・・・死、苦

サイネリア・・・再寝る

といった語呂合わせに通じるため、あえてそのような花を避ける細やかな心遣いを持つ人もいるわけだ。これも美徳といっていいだろう。

言葉に関しては自戒の意味も込めて、なるべく選んでいきたいものだ。

参考文献:國學院大學日本文化研究所(編)「神道事典」弘文堂 1999年

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スピの用語法

スピという言葉には、さまざまな意味が込められていて、一義的に定義できない性質を持っています。ここでは、心理学分野で主張されているスピリチュアル、スピリチュアリティの用語法について説明を加えておきます。

私がこのブログで言及しているスピとは、文脈に応じて微妙に違っていることも読み取ってもらえたらと思います。

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西平(2003)は英語の「Spirituality」と日本語の「霊性」のずれの問題に着目して、Spiritualityを日本語に移しかえるときの 困難を克服するための用語法の暫定的な整理を試みている。

西平はスピリチュアリティという外来語の意味を、それに関連すると思われる日本語の「ルビ」とし て使用することを提案している。

彼によればスピリチュアリティの位相として、

1)宗教性・・・宗教組織に依存しない意味での宗教的意識、宗教的情操

2)全人格性・・・身体、こころ、社会などをふくんだひとまとまりとしての個人全体

3)実存性・・・感動もって理解される、魂にふれるような主体的、主観的な自覚

4)大いなる受動性・・・何か聖なるものにふれ、「生かされている」と実感すること

の4つを区別している。その上で、以下に示すようなスピリチュア リティ概念の要素を示唆している。

                                                                                                                                                                                                                                
スピリチュアリティの暫定的な用語法(西平,2003をもとに作成)
スピリチュアリティ=霊性
スピリチュアリティ=宗教性、宗教的情操、宗教的感受性
スピリチュアリティ=精神性、芸術的感性、身体的感性
スピリチュアリティ=見えざるものへの感受性
スピリチュアリティ=超越性、神秘性、垂直性、超自然性
スピリチュアリティ=実存性
スピリチュアリティ=内面性、内面への道、沈黙・瞑想、自己否定性
スピリチュアリティ=全人格性
スピリチュアリティ=求道性
スピリチュアリティ=聖なるものとのつながり
スピリチュアリティ=大いなる受動性、脱自性
スピリチュアリティ=魂に関わる事柄
スピリチュアリティ=いのちとのつながり、いのちの発現
スピリチュアリティ=気の流れ、風の流れ
スピリチュアリティ=いかなる訳語も適当でない場合、上記のすべてを含む

以上のように、スピという言葉には多様な意味が込められているため、スピリチュアル=「霊魂」と短絡的に結びつけるのではなく、文脈の中で使い分けていく必要があります。

唵枳里訶矩娑嚩訶

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学校教育とスピ

現行の学習指導要領では、義務教育学校(小学校、中学校)において「心の教育」の一環として、事実上<スピ>に関係する内容が教えられています。

このブログの読者の方で、子どもさんをお持ちの方は、学校で<スピ>に関する内容が教えられているという事実を認識しておいてください。

特に「主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること」がスピに関連することです。これらを現在の学校教育では教えることになっているわけです。文部科学省がスピリチュアリティ、スピリチュアルという言葉自体を使っているわけではありませんが、「心の教育」において、こうした宗教意識に関する側面を意識していることは確かなことです。

以下に資料を示します。赤字で示した部分が特にスピに関連している部分です。

道徳の指導要領の内容

〔第1学年及び第2学年〕
1主として自分自身に関すること。
(1)健康や安全に気を付け,物や金銭を大切にし,身の回りを整え,わがままをしないで,規則正しい生活をする。
(2)自分がやらなければならない勉強や仕事は,しっかりと行う。
(3)よいことと悪いことの区別をし,よいと思うことを進んで行う。
(4)うそをついたりごまかしをしたりしないで,素直に伸び伸びと生活する。

2主として他の人とのかかわりに関すること。
(1)気持ちのよいあいさつ,言葉遣い,動作などに心掛けて,明るく接する。
(2)身近にいる幼い人や高齢者に温かい心で接し,親切にする。
(3)友達と仲よくし,助け合う。
(4)日ごろ世話になっている人々に感謝する。

3主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること。
(1)身近な自然に親しみ,動植物に優しい心で接する。
(2)生きることを喜び,生命を大切にする心をもつ。
(3)美しいものに触れ,すがすがしい心をもつ。

4主として集団や社会とのかかわりに関すること。
(1)みんなが使う物を大切にし,約束やきまりを守る。
(2)父母,祖父母を敬愛し,進んで家の手伝いなどをして,家族の役に立つ喜びを知る。
(3)先生を敬愛し,学校の人々に親しんで,学級や学校の生活を楽しくする。
(4)土の文化や生活に親しみ,愛着をもつ。

〔第3学年及び第4学年〕
1主として自分自身に関すること。
(1)自分でできることは自分でやり,節度のある生活をする。
(2)よく考えて行動し,過ちは素直に改める。
(3)自分でやろうと決めたことは,粘り強くやり遂げる。
(4)正しいと思うことは,勇気をもって行う。
(5)正直に,明るい心で元気よく生活する。

2主として他の人とのかかわりに関すること。
(1)礼儀の大切さを知り,だれに対しても真心をもって接する。
(2)相手のことを思いやり,親切にする。
(3)友達と互いに理解し,信頼し,助け合う。
(4)生活を支えている人々や高齢者に,尊敬と感謝の気持ちをもって接する。

3主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること。
(1)自然のすばらしさや不思議さに感動し,自然や動植物を大切にする。
(2)生命の尊さを感じ取り,生命あるものを大切にする。
(3)美しいものや気高いものに感動する心をもつ。

4主として集団や社会とのかかわりに関すること。
(1)約束や社会のきまりを守り,公徳心をもつ。
(2)働くことの大切さを知り,進んで働く。
(3)父母,祖父母を敬愛し,家族みんなで協力し合って楽しい家庭をつくる。
(4)先生や学校の人々を敬愛し,みんなで協力し合って楽しい学級をつくる。
(5)郷土の文化と伝統を大切にし,郷土を愛する心をもつ。
(6)我が国の文化と伝統に親しみ,国を愛する心をもつとともに,外国の人々や文化に関心をもつ。

〔第5学年及び第6学年〕
1主として自分自身に関すること。
(1)生活を振り返り,節度を守り節制に心掛ける。
(2)より高い目標を立て,希望と勇気をもってくじけないで努力する。
(3)自由を大切にし,規律ある行動をする。
(4)誠実に,明るい心で楽しく生活する。
(5)真理を大切にし,進んで新しいものを求め,工夫して生活をよりよくする。
(6)自分の特徴を知って,悪い所を改めよい所を積極的に伸ばす。

2主として他の人とのかかわりに関すること。
(1)時と場をわきまえて,礼儀正しく真心をもって接する。
(2)だれに対しても思いやりの心をもち,相手の立場に立って親切にする。
(3)互いに信頼し,学び合って友情を深め,男女仲よく協力し助け合う。
(4)謙虚な心をもち,広い心で自分と異なる意見や立場を大切にする。
(5)日々の生活が人々の支え合いや助け合いで成り立っていることに感謝し,それにこたえる。

3主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること。
(1)自然の偉大さを知り,自然環境を大切にする。
(2)生命がかけがえのないものであることを知り,自他の生命を尊重する。
(3)美しいものに感動する心や人間の力を超えたものに対する畏敬の念をもつ。

4主として集団や社会とのかかわりに関すること。
(1)身近な集団に進んで参加し,自分の役割を自覚し,協力して主体的に責任を果たす。
(2)公徳心をもって法やきまりを守り,自他の権利を大切にし進んで義務を果たす。
(3)だれに対しても差別をすることや偏見をもつことなく公正,公平にし,正義の実現に努める。
(4)働くことの意義を理解し,社会に奉仕する喜びを知って公共のために役に立つことをする。
(5)父母,祖父母を敬愛し,家族の幸せを求めて,進んで役に立つことをする。
(6)先生や学校の人々への敬愛を深め,みんなで協力し合いよりよい校風をつくる。
(7)郷土や我が国の文化と伝統を大切にし,先人の努力を知り,郷土や国を愛する心をもつ。
(8)外国の人々や文化を大切にする心をもち,日本人としての自覚をもって世界の人々と親善に努める。

〔中学校〕
1主として自分自身に関すること。
(1)望ましい生活習慣を身に付け,心身の健康の増進を図り,節度を守り節制に心掛け調和のある生活をする。
(2)より高い目標を目指し,希望と勇気をもって着実にやり抜く強い意志をもつ。
(3)自律の精神を重んじ,自主的に考え,誠実に実行してその結果に責任をもつ。
(4)真理を愛し,真実を求め,理想の実現を目指して自己の人生を切り拓いていく。
(5)自己を見つめ,自己の向上を図るとともに,個性を伸ばして充実した生き方を追求する。

2主として他の人とのかかわりに関すること。
(1)礼儀の意義を理解し,時と場に応じた適切な言動をとる。
(2)温かい人間愛の精神を深め,他の人々に対し感謝と思いやりの心をもつ。
(3)友情の尊さを理解して心から信頼できる友達をもち,互いに励まし合い,高め合う。
(4)男女は,互いに異性についての正しい理解を深め,相手の人格を尊重する。
(5)それぞれの個性や立場を尊重し,いろいろなものの見方や考え方があることを理解して,謙虚に他に学ぶ広い心をもつ。

3主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること。
(1)自然を愛護し,美しいものに感動する豊かな心をもち,人間の力を超えたものに対する畏敬の念を深める。
(2)生命の尊さを理解し,かけがえのない自他の生命を尊重する。
(3)人間には弱さや醜さを克服する強さや気高さがあることを信じて,人間として生きることに喜びを見いだすように努める。

4主として集団や社会とのかかわりに関すること。
(1)自己が属する様々な集団の意義についての理解を深め,役割と責任を自覚し集団生活の向上に努める。
(2)法やきまりの意義を理解し,遵(じゅん)守するとともに,自他の権利を重んじ義務を確実に果たして,社会の秩序と規律を高めるように努める。
(3)公徳心及び社会連帯の自覚を高め,よりよい社会の実現に努める。
(4)正義を重んじ,だれに対しても公正,公平にし,差別や偏見のない社会の実現に努める。
(5)勤労の尊さや意義を理解し,奉仕の精神をもって,公共の福祉と社会の発展に努める。
(6)父母,祖父母に敬愛の念を深め,家族の一員としての自覚をもって充実した家庭生活を築く。
(7)学級や学校の一員としての自覚をもち,教師や学校の人々に敬愛の念を深め,協力してよりよい校風を樹立する。
(8)地域社会の一員としての自覚をもって郷土を愛し,社会に尽くした先人や高齢者に尊敬と感謝の念を深め,郷土の発展に努める。
(9)日本人としての自覚をもって国を愛し,国家の発展に努めるとともに,優れた伝統の継承と新しい文化の創造に貢献する。
(10)世界の中の日本人としての自覚をもち,国際的視野に立って,世界の平和と人類の幸福に貢献する。

子どもたちに、このような内容を教えることになっているわけですが、さて、親や教師がスピ人であるならば、身を以て「人間の力を超えたものに対する畏敬の念」を体験的に理解させるような教育ができるはずです。

ところが、実際には教える側の大人に、そのような感受性や実践力、指導力が不足している場合が多く、学校でもどう教えたらいいかと言うことで頭を抱えている教師も多くいます。

次世代を育て、社会の形成者として確固たる信念をもった人間を育てていく上で、上記のような事柄をまず学ぶべきは、大人の方ではないでしょうか。

同様にネオスピやカルトに対する選別眼も、子どもの頃からしっかりと身につけて置く必要があると思います。宗教やスピに対する予防接種、免疫力の増進です。

有象無象に振り回されず、いのちのつながり、かけがえのなさ、崇高なるものとの一体感を頭ではなく全体で知っている人間を育てていかなければ、これからの世界で確実に日本の社会は衰退、崩壊の坂道を転げ落ちていくでしょう。

唵枳里訶矩娑嚩訶

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我が闘争(2)

毎月1日は「映画の日」だとかで入場料が¥1000ということで、「レッドクリフ」を観に行ってきた。料金が安くなるなど、そんなことは露にも知らなかった。

公開初日&連休初日ということで、近所の映画館は満員。3時間近くの長編だったが、来年4月にはパート2も公開されるということで、「赤壁の戦」の映像を楽しんできた。

基本的に三国志ものはコーエーのPCゲームなどで歴史的流れを覚えてしまっているので、だいたいのストーリーは分かるのだが、三国志の時代設定って、日本で言えば魏志倭人伝に記述された卑弥呼の女王国、邪馬台国だったわけで、日中の「文明の差」を感じさせる。この当時の中国って、圧倒的に文明が発達していたんだ。

ただ、戦には呪術がつきものという点では興味を惹かれる。実際の戦闘に先駆けて、拝み倒しや生け贄(犠牲祭祀)を駆使していたことが知られている。当時の生け贄ってもちろん人間だ。

さて、戦と言うことで、我が闘争のパート2の話に入るが、

1.ある大学人を中心とするグループ:最近、中心人物がブログを閉鎖したようだ。「表」では休止したようだが、逆に「裏」が活発化するので、引き続き注視する。

2.北海道の宇宙系カルト:あろうことか、「教祖」が私にも呪詛をかけてきたので、四国の流儀に従って某日、ある手順を使い呪詛打ち返しを行った。目に見えない次元での攻撃を行ってきた場合、こちらもそれは察知できるので、お帰り願うことにしている。

3.教会に対する嫌がらせ:9月以来ピタリと止んだままで、今のところ妨害工作はない。しかし、油断禁物に付き、物理的、霊的に防衛策は講じてある。

4.伊勢白山道:こちらは私に対する呪詛はない。関係者への呪詛も止んでいる(シールドを張って封印した)。あとは、検証サイトのコントロールの問題であろう。引き続き、援護射撃は行う。

基本的に、私は専守防衛であり、先制攻撃を仕掛けることはない。しかし、やられたことは返す。それが「返報性の原理」というものである。ただ、「攻撃は最大の防御である」という「虎の穴」の教えもあるが、私はそのような考え方を取らない。

とは言うものの、プロ同士の心霊戦のプロセスについては十分に研究しているし、抜かりないようにあらゆる場面を想定した図上演習は怠っていないので、「我をそむくる者あらば、その失うを見せしめたまへ」の精神で対処はさせてもらう。

でも、最近の呪詛のパターンって、玄人同士のやり合いだけじゃなくなっている。玄人が素人に呪詛をかける。呪術をちょっと覚えたての素人に毛の生えた者が、自分の力を誇示するために呪詛をかける。そして、素人でさえも簡単に術を学ぶことができる。呪い方を教えるところがあるためだ。

まったく仁義なき戦いになってしまっているのが、最近の呪詛合戦の特徴だ。自分のプライドや自尊心を傷つけられたと思ったものが、直接相手と喧嘩するのではなく、陰湿な呪詛という形で、非物理的、不可視の次元で想念を飛ばす。人間の腹の底のレベルでは日常生活に呪詛的感情(邪気、邪念)がいっぱい溜まっている人がそれだけ多いのだろう。

ただし、くれぐれも言っておくが、「人を呪わば穴二つ」だし、中途半端な術を使うと相手に行くどころか自分に戻ってきて自爆するよ。

そんなエネルギーがあれば、もっと生産的なことに使えばいいと思う。なので、私もよほど悪質なケースでない限り、余計なエネルギーは使わず、スルーしてやっている。他にやることがいっぱいあるし。

唵枳里訶矩娑嚩訶

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精神世界ランキング

このブログを「精神世界ランキング」に新たに登録しました。昔から、HP「やほよろづ.com」も参加していますが、あれはHP開設当初から貼り付けたまま、これまでまったく放置しておりました。気がついたら、いつの間にかランクも上がっているようですが。。。

むしろ、更新ペースの速いブログ記事の方にテキストリンクorバナーリンク(スピリチュアル印)を貼り付けておきますので、読み終わったらポチッとしていただければ、幸甚に耐えません。

ということで、早速練習を。最近の記事にはとりあえず貼り付けてみたので、よろしければポチっとしてやってください。

で、記事のフッタには「唵枳里訶矩娑嚩訶」の真言をつけることにしました。

唵枳里訶矩娑嚩訶

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会員制サイト

本日より私のライブ活動などイベント関係の組織が北海道を拠点に正式に立ち上がりました。それに関連する事柄で、スピ弟子の桜庭さんのサイトで「会員制サイト」に関する記事も出ているのでご覧ください。

このサイトは、私のブログの読者というよりは、桜庭さんのブログ読者を念頭に置いています。そこに書いてある事項に沿って、希望される方は申し込みをしていただければと思います。特に居住地、地域は限定していないそうです。

なお、お問い合わせなどは、桜庭さんまでお願いします。この件については、一切の事務的仕事、マネージメントを一任していますので。

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私のライブ(3)

1つ前の記事で、来年は札幌を起点にライブ活動をはじめると書いたが、スピ弟子の桜庭さんのサイトでそのスケジュールが公表されたので、こちらもそれと連動した形でお知らせします。

日時     平成21年4月4日 14時30分から17時まで

場所     さっぽろテレビ塔2階しらかば

参加費    5000円

メールで、本名、住所、電話番号を明記のうえ桜庭さんまで申込をして頂ければと思います。こちらの方は、特に会員制ではありませんので、興味のある方はふるってご参加ください。

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今後の活動方針

五十路になってから、激動の日々を過ごしている。気がついたら今年も残り少なくなってきた。私は50年分の人生設計しか持っていなかったので、その後どうするかについて保留にしてきた部分がある。大学で65歳の定年退職を待たずに、大学という枠を飛び出し、さて何をしようか、本当ならゆっくりと考える時間を今年は持つ予定だった。

でも、何か大きな力が働いているようで、瞬く間に激流に飲まれていき、ものすごいスピードでここまで突っ走ってきた。そうしているうちに、おぼろげながら、次の一手、プランが見えてきたところもある。

1つは、四国の拝み屋教会の代表になったこと。復帰してからというもの、次第に人も集まってくるようになった。こちらの活動は、基本はローカルで地道に運営を心がけていきたい。

2つめは、大学の仕事。こちらは四国での活動との兼ね合いもあるので、来年度は最小限に留めたい。

3つめは、ライブ活動。こちらは北海道を起点に進めていきたい。次第に日本列島を南下して、全国を旅して回るのも面白そうだな。

そして、最後が自分のライフワークになるであろう「スピ維新」にまつわる活動。何年も前からしたためていた計画があったが、それが来年あたりからNPOなどの形で実現しそうな雰囲気になっている。そこに自分が持てる力を傾注できれば、私の今生での役割は終わるだろう。

大学も含めて、どれもスピに関する仕事になる。枠にとらわれずに、スピの実践と教育に携わっていきたい。

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