古代呪術の歴史と真理(その3)
次に、神社の歴史について述べておこう。
神社が今のように常設の神殿を持つようになったのは神道の歴史の中では比較的新しく,7世紀後半,天武天皇の時代からの話である。681年,天武朝は畿内および全国に向けて,天社,国社の神の宮を新造,修理せよとの命令を発している。
常設の神殿を設置するということは,神殿内に神さまに常駐してもらうということであり,人間側の都合でいつでも神さまに願掛けしたり,神託をもらったりできる体制にしようということである。
しかし,それ以前の神社には本殿や神殿,社の類は常置されていなかったのである。仮設神殿を建てて,春や秋の祭の時にだけ神さまを呼んできて,祭が終わったらお帰り願うというスタイルであり,神は神社には常駐していなかった。
社(ヤシロ)というのは,今では常設の神の宮,神殿,社殿の意味になっているが,その語源は「ヤ=屋」+「シロ=領域」であり,神の座を建てるために設置された特別な場所のことで,必ずしも常置されるものではない。ヤシロは「神地」という意味だった。
では,祭の時以外に,神さまはどこにいると考えられていたのだろうか?万葉集には<社>を<モリ>と詠ませる例が認められる。
社=モリ=>杜=>森
すなわち,森の中に神の領域;ヤシロはあったことを意味する。これが鎮守森の原型である。神社には今でも森がつきものであるが,これは神殿の中ではなく,周囲に広がっている森の中に神さまはいらっしゃるという観念に基づくものである。
さらに,榊<サカキ>とは,俗界と聖界を分け隔てる「境界=サカの木」という意味である。古墳時代の祭祀では聖域として,生け垣を作り,生の樹木を垣根のように囲い並べて境界線を作ることで,その中に神を迎えた。これを<ヒモロギ>という。
また,ヒモロギとイワサカはワンセットである。イワサカ=<磐,境>とは,石を並べて囲い,その真ん中に神が降り立つと考えられた聖域である。
こういう祭祀法は古墳時代における原神道の祭祀法であり,宗像大社の高宮祭場に今でも残っている。
天の岩戸の神話で,天照大神が岩戸の中に隠れてしまったときに,アメノウズメノミコトらが唄って踊ってドンチャン騒ぎをやったときの祭場には,岩戸の前に榊を植え,榊に鏡をかけています。これは岩陰祭祀と呼ばれる祭祀法で,6世紀から7世紀にかけての神祀りのやり方である。宗像大社の沖津宮遺跡の発掘で確認されたものであり,神話の記述が正しいことを示している。
写真:福岡県,宗像大社の高宮祭場。木々で囲まれた領域がヒモロギ,石で囲まれた領域がイワサカである
そこから遡ると,4世紀から5世紀までは岩上祭祀といって巨岩の上に小石を四角に置いてイワサカを形成し,その前に鏡,ガラス玉,石玉などの装身具や刀剣類を捧げている。
つまり,古墳時代の祭祀は,縄文以来の巨岩信仰,磐座信仰から出発し,次第に岩陰,岩場から離れた露天での祭祀に変化していく。自然抜きには古代信仰は語れないのである。
ヒモロギ,イワサカの他には,イワクラ,カムナビの概念もあった。イワクラは神の降り立つ磐,寄り
代のことであり,カムナビは神の住まう山のことである。
写真:大神神社境内にある磐座神社。神祇信仰は岩石信仰をルーツの1つにもつ。
要するに,神道の原型は,自然物を通じて感じられる<隠れ身の神性>への畏敬の念だったわけである。具体的なモノの背後に感じられるインスピレーション,聖なるものの感覚である。当時は、モノ=魂と日本人は考えていた。
写真:伏見稲荷山:下の社のご神蹟(白菊大神)。稲荷信仰の中でもお塚信仰は、古代の岩石信仰の名残を表している。
大神神社には今でも本殿がないが,それは三輪山自体がご神体だからである。明治になったときに大神神社は国に神殿を建てたいと要請しているが,逆に国から却下されており,神体山信仰がそれほど定着していたことを示している。
(続く)
唵枳里訶矩娑嚩訶!
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