神仏分離が日本の霊性文化にもたらしたもの
明治期の廃仏毀釈令が出るまでは,神社の中に寺院があり,神仏が渾然一体とした形で祀られていた。修験道や陰陽道も健在で,わが国独自の宗教的フュージョンが認められた。明治から第二次世界大戦に至るまでの神社と仏閣の分離,国家神道化への道は,日本の霊的伝統をズタズタに切り裂き,宗教的心性の貧困をもたらした。仏教の貴重な文化的遺産が失われ,修験道,陰陽道も壊滅的な打撃を被った。
そもそも,われわれ日本人は神仏に対してどのような観念や感性を持っていたのか,日本の宗教的心性の源泉,源流はどのようなものなのか,こうした伝統が失われ,霊性の空白期間を作ってしまった今では探求するのも困難を極める。この記事では,歴史学的,民俗学的文献に加えて,私がこれまでにフィールド・ワークで実践的,実地調査的に得ることのできたスピリチュアルな情報も重ね合わせながら,神仏概念の習合について綴ってみた。
Godとカミ
古代日本のカミという語は、西洋のgod,deityの概念に見られるように、超越的、人格的(人称的)な性質をもっていない。国学者本居宣長(1730-1801)は「人はもちろん、鳥獣草木のたぐい海山など、そのほか何でも普通以上にすぐれた徳(威力)があって、畏きものをいう」というカミの定義をしている。日本人の自然崇拝は、必ずしも山川草木などの自然物を、そのまま神として崇拝したのではなく、そうした自然物に宿る神霊を崇拝するアニミズムであった。その意味で日本人の言うカミは霊魂、精霊、霊鬼、霊威などの働きを表している。(Cf.,朝倉・井之口・岡野・松前、1963「神話伝説辞典」東京堂出版)
森羅万象、自然には創造と破壊、荒ぶる力と和らぐ力のサイクルがある。その自然の摂理の圧倒的な姿の背後に人智を越えた大いなるもの,聖なるものの存在を感じ取るところから、日本の神道は成立していったものと考えられる。
鎌田(2000)は神道の起源を弥生時代以降の農耕文化に求めようとする従来の神道学説に異議を唱え、旧石器時代以来の存在感覚、コスモロジーをベースにして、そこにさまざまな洗練が加わり、縄文、弥生、古墳時代以降のさまざまな文化習合、文化複合を通じて次第に成立していったのが日本の神道であると論じている。したがって、上述したような神道的な感覚は、縄文人や旧石器時代人にもあったという立場である。
神仏不二
神と仏、カミとカミとの関係については、宗教的、政治的な問題としてしばしば紛争の種になった。大陸、朝鮮半島から移住して大和朝廷を樹立した豪族勢力の奉じる天津神と日本列島に先住土着していた部族たちの奉じる国津神にまつわる神話は旧来の狩猟採集型文化に則って生活してきた縄文人の末裔と弥生型稲作農耕文化を日本にもたらした渡来系の人々の末裔との紛争を象徴した神話群であろう。これは彼らの信じるカミ対カミの戦いでもあり、結果的に大和朝廷による日本統一につながった。
次に生じた宗教的葛藤は7世紀から8世紀初頭にかけての律令制度の確立期にやってきた。日本へ仏教が正式に伝えられたのは欽明天皇13年(552年)とされるが、『元興寺縁起』などでは538年になっている。ということは、その以前に民間レベル(渡来人による私的信仰として)では断片的な形で仏教が伝えられていたはずである。
やがて、崇仏派である蘇我氏と排仏派である物部氏、中臣氏が日本への仏教の導入を巡って激しく対立したことは有名である。587年、新興勢力蘇我氏は仏教を掲げ、それに神祇神道を信仰する物部氏、中臣氏が対抗した。蘇我馬子は聖徳太子(574~622)らと共同して物部守屋を滅ぼした。
ここで物部氏が信仰していた原神道の系譜は,彼らの遠祖,饒速日命(にぎはやひのみこと)に授けられた十種神宝(とくさのかむたから)の祝詞にみられるように、魂を奮い起こすことにより霊的エネルギーを高め,癒しのパワーを生み出す神道だったと思われる。
ちなみに、十種神宝(とくさのかんだから)とは饒速日命が高天原から降臨した際に 天神御祖から授けられた「天璽瑞宝十種」【あまつしるしのみずのたからとくさ】のことである。すなわち、
(鏡)・・・沖津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)
(剣)・・・八握剣(やつかのつるぎ)
(玉)・・・生玉(いくたま)、足玉(たるたま)、死反玉(まかるがへしのたま)、道反玉(ちかえしのたま)
(比礼)・・・蛇比礼(おろちのひれ)、蜂比礼(はちのひれ)、品物比礼(くさぐさのもののひれ)
の十種類の品をさす。これらは呪力を持つ品々であるとされ、魂を鎮め、病を癒し、死者を蘇らせるほどの霊力を秘めたものである。現代でもこの十種祝詞を駆使して呪力を発揮する拝み屋シャーマンも存在する。
その後、645年の大化の改新、672年の壬申の乱を経て、血で血を洗うような天皇家とその配下にある豪族との争いは収拾に向かい、仏教を国教とする律令国家は完成していった。
しかし、このような対立構造は一方のカミだけが生き残ったり、仏教だけが勝ち残ると言った形で収束したのではなく、日本古来からの宗教的心性をベースとして、これに「上書き」される形で、さまざまな神々、神と仏が習合していくというフュージョン的形態をとっていったのが特色である。
神仏習合の媒介変数となったのは,山林修行者の介在であろう。6世紀前半に仏教が公式に伝来して以来,それ以前に存在していた氏族たちの神祇信仰と民間の山岳信仰との間で,牽引反発の力学が作用した。古代の氏族たちの神祇信仰はアニミスティックな自然崇拝を受け継いだもので,これが後世において整備され9世紀には神道になる。こちらの流れは,朝廷や貴族の利害に一致する正統となる。
一方,民間の山岳信仰は7世紀後半に登場した役小角の伝説に見られるように,朝廷が脅威を感じるほどの超能力者やシャーマンがいたようである。8世紀には中国や韓国から伝来してきた密教の行法(雑密),仙道,道教の呪術が混ざり合いながら,山岳信仰は宗教的実践のエネルギー源となっていった(Cf.,立川武蔵,1998「最澄と空海」講談社)。南都六宗を中心とする奈良仏教は,精霊崇拝,タマ崇拝などのアニミズム,シャーマニズムと一線を画するものであり,受戒した仏教僧と山林修行者の交流は勅命によって禁止されていた。
しかし,光仁天皇(在位770-781)の世になって,10年以上の山林修行を行った者の公的な出家が認められるようになり,山林修行者が仏教僧になる道が開かれたのである。このことは,山林修行者の体得したサイキック・テクノロジーや各種の体験的知識が仏教の未来にとって有効であることを示すものであり,事実空海も若い頃,山林修行者(沙門;国家非公認の私的な僧)から密教の呪法の一種,虚空蔵菩薩求聞持法を伝授されている。
9世紀に空海や最澄によって確立された密教は,山林修行によるサイキック&スピリチュアルを含む実践的知識の裏打ちによって,旧来の仏教にとってかわるものになった。それは密教における神仏習合の契機にもなり,日本バージョン密教の確立も意味していた。
たとえば、高野山の壇上伽藍西には御社があり、丹生明神、狩場明神など高野山系土俗の神々をまつる社がある。
土俗のカミを祀る高野山の御社(2000.4.25鬼神撮影)
また、奥高野には立里荒神社(三宝荒神を祀る)があり、空海が高野山に大伽藍を建立するにあたり、高野山の山の神に伽藍繁栄と密教守護をお祈りして作った神社もある。一方で、日本土俗のシャーマニズムは密教や修験道とも結びついて、稲荷(荼吉尼)信仰や八幡信仰の興隆にもつながっていった。
仏教が皇族,貴族など一部の社会階層の人々にだけ恩恵をもたらし,僧侶の官僚化や政治的利益をもたらす手段だったり,あくまでも国家本位の宗教であったなら,これほどまでに普及する事はなかったであろう。仏教の中でも密教は,庶民に自己の救済や生活の改善の道を提供してくれるとの現世利益的期待から受け入れられていった。
薬師如来,観世音菩薩などの仏像が持つ呪術的魅力は疾病治癒,厄難救済の霊能を持つ仏として人々の厚い信仰を集めたのもこのような理由による。庶民にとっては,それが仏であろうが神であろうが霊験とご利益があれば何でもよいのである。このため,年貢や労役などの苦難から逃れるために,ひそかに出家して僧侶になったり,呪術に傾倒していく者も後を絶たなかった。平安時代以降,神仏習合は民衆のレベルにおいて加速していった。
神仏不二、すなわち神と仏は本来は一体であるという思想は、やがて鎌倉時代末期になって両部神道として確立された。両部神道は真言密教からから発生していったと言われるが、神仏の関係はここでは一つの形を取って現れるもの(垂迹)が神の姿であり、その形の奥にあって大元にあるもの(本地)が仏であるという仏本神迹の思想であった。本地垂迹思想とも言う。これにより、伊勢神宮の内宮を胎蔵界大日如来-日天子、外宮を金剛界大日如来-月天子になぞらえる。
その後、室町時代に吉田兼倶(1435-1511)が唱えた元本宗源神道(吉田神道)は、逆に神本仏迹の立場をとる。吉田神道では神は観念的なものではなく、天地に先立って天地を定め、陰陽を越えて陰陽をなす根元的存在である。神には始めも終わりもなく、天にあっては神、万物にあっては霊、人間にあっては心である。ゆえに、神は心の中にある。人の清明なる心が心の神であり、それが理でもあり、天の神あるいは天理が人に入れば、心の神になると説く。吉田神道の思想は伊勢神道、儒教、仏教、道教、陰陽道の要素が附会された形でミックスされており、そのフュージョン度はきわめて高い。
鎌倉・室町期の中世はこのように神仏がごった煮の状態になっており、民衆の現世利益志向とあいまって多種多様な神仏が崇拝の対象になっていった。七福神、荼吉尼天などが開運・招福の神(仏)として庶民の信仰の対象となったのもこの時期である。
荼吉尼天と稲荷神の習合
宮坂(1981)の「真言陀羅尼」によれば、ダーキニーは愛染明王の前身であり、その起源はインドのパラマウ地方(ベンガル地方の南西部)に居住していたドラビタ族の一部族、カールバース人が地母神の配偶者として信仰していた女神であり、元は農業豊ぎょう神であった。その後、愛欲を司る女神とされ、紀元前3世紀頃のインドで流行し、紀元3世紀ころにはさらに転じて大憤怒の性格を持つ凶暴な神で、人肉を食らうとされるに至る。数百年間の間に人々の自由連想がダーキニーのイメージを大幅に変えていったわけである。
これが仏教に取り入れられていくと、鬼神夜叉の類とされ、人の肉を食らう恐ろしい神となる。「大日経疏」では、大日如来が大黒天に変化して、ダーキニーを退治し、調伏させるという逸話がでてくる。この調伏以来、ダーキニーは人の生肉を食べるのを禁じられ、死肉なら食べてもよいと許可された。さらに、人の死をその6ヶ月前に予知する能力を大日如来から授けられ、この神通力を得るために人々はダーキニーを信仰するようになった。
笹間(1998)の「怪異・きつね百物語」(雄山閣)によれば、紀元前後の愛欲神としてのダキニのイメージ、すなわち食人(カンニバリズム)=性愛関係のイメージが、中国に伝わる男性の精液を吸い取る妖狐の伝説と結びついて、ダキニ天と狐の心理的対連合が生じたのではないかと考えている。密教が日本に伝播したときに、ダーキニーは農耕神としての稲荷神のイメージとも重なり、さらに、狐の妖艶さのイメージとも対連合して、稲荷=狐の図式が完成したのではないだろうか。
笹間によれば、平安時代に中国では狐のことを野干(射干)と称したと伝わり、狐の別名を野干と呼ぶようになったそうであるが、実際には中国語の野干とはジャッカルのことであり、ダーキニーはジャッカルの神と言うことになる。
また,笹間(1988)の「ダキニ信仰とその俗信」(第一書房)によれば,稲荷神は複数神であり,農耕民族の中でも稲作に頼る民族が古くから持っていた信仰が,日本において稲タマとして崇められ,神道に結びついて宇賀魂命,猿田彦命,大宮売命の三振を祀るようになったと述べている。もともとが生産,生活の安穏を願ったり,それに感謝する神として定着したものゆえに,民間信仰としてはジャストマッチし,庶民の願望はさらに拡大して富貴を祈る対象にまでなっていった。そこに,ジャッカルに乗ったダキニ信仰が伝わり,これが通力自在で人の願望を叶えてくれる神ということから,稲荷神と混同され,狐は稲荷神の使いと見られるようになり,やがて狐そのものが神獣とされるようになったのではないかというのである。
こうして荼吉尼天は狐にまたがった稲荷の女神としてイメージされるようになった。仏教稲荷として有名な愛知県の豊川稲荷(妙厳寺;曹洞宗)の豊川荼吉尼眞天、岡山県の最上稲荷(妙教寺;日蓮宗)の最上位経王大菩薩はいずれも、この女神イメージをかたどっている。
仏教稲荷のメッカ:豊川稲荷の霊狐塚(2000.3.15鬼神撮影)
笹間(1988)によれば,源平の時代,すなわち,平安時代末期から鎌倉時代にかけて,密教,修験道,民間信仰がミックスされる形で,荼吉尼天法が盛んになり,中にはこれを使って呪詛をかける者もいたという。記録上は827年に藤原高房が美濃介に任じられたとき,美濃国席田郡にダキニを操る妖巫がおり,この部落の民は福徳を得る神としてダキニを祀り,国司も周辺部落の人も怖がって近づこうとしないという一文が残っている(文徳実録)。また,平清盛も荼吉尼天の信仰を持っており,若い頃これを使って立身出世を願ったという言い伝えもある(源平盛衰記)。
修験道とシャーマニズム
修験道は仏教伝来以前から存在した日本古来の山岳信仰が,密教,道教,儒教などの外来宗教の影響を受けつつ,平安時代(9世紀)に宗教的体系となったものである。
修験道では山岳修行によって「あの世」になぞらえられた山の神霊の力を体得することによって超能力(験力)を修め,その験力を持って呪術的活動を行う修験者(山伏)を中心に構成されている。
修験道の特徴は・・・
1) 薬草など医学・薬学的技術
2) 金石関連技術
などの科学技術に通じる側面も持っているところに加え、
3) 神道系の鎮魂帰神の技術
4) 道教系の修法や方術
5) 密教系の加持祈祷術
といったサイキック・テクノロジーが習合した教義・実践体系をもっているところにある。
宮家(1983)によれば,修験者は山神,鬼,天狗,眷属,護法,動物霊などの精霊を意のままに使役するための儀礼を修じている。修験道の元祖とされる役小角は鬼神を使役して水をくみ,薪を採らせており,命令に従わないときには呪縛するという記述が「続日本記」にはある。平安時代になると,修験者たちが護法(童子)を使役して,託宣,憑き物落とし,調伏などの修法を行った。
中世には天狗や飯綱を使役している。そして近世になると,伏見稲荷や金峰山から眷属のオサキを受けてきてこれを使役し,占いや憑き物落としをしたり,さらには他人にこれを憑けて障りをもたらすとされた。当時使役された動物霊には,狐,蛇,狸,犬などがある。
護法とは陰陽道でいう式神に対応する使役神霊の概念で通常は童子のイメージでとらえられている。役小角の前鬼,後鬼。剣の護法を使った信貴山の命蓮の剣鎧童子などが含まれる。広義には神仏の眷属全般も含まれ,天狗(天狐),龍神なども入る。
飯綱呪法とは修験者の行う呪法の一種で,密教の荼吉尼天法が加味されて,それに山岳信仰から形成された天狗修験道として体系化されたものである。戦国時代,上杉謙信と武田信玄は共に飯綱権現を信仰していたことが知られている。飯綱権現は摩利支天,三宝荒神,地蔵,不動明王,宇賀大神などに変化して現れ,行者に仇をなすものに攻撃を加える。
また,飯綱使いとは,この飯綱修験系の流れにあるもので,「管狐」,「おさき狐」などの動物霊を使役して,人に憑けたり落としたりする悪質な修験者を意味する言葉である。修験者の中には,自分の家で飼育していた本物の狐を伏見稲荷山まで連れて行って放ち,一定期間後に連れ戻して「霊狐」として使う者もいたという。その他,自分の念を呪法によって強め,「天狐」,「地狐」として飛ばす「狐飛ばし」の技を実行する者も飯綱使いにはいた。
修験道に見られるシャーマニズムの歴史的展開 |
脱魂型シャーマン |
憑依型シャーマン |
|
指導神霊,眷族 |
指導されるもの |
憑ける者(術者) |
憑けられる者 |
操作される神霊,眷族,霊体 |
| 古代 |
不動明王,童子など |
験者 |
審神者,験者 |
巫女,女房 |
神,護法 |
| 中世 |
天狗 |
小僧,稚児 |
山伏 |
稚児 |
天狗 |
| 近世 |
天狗 |
俗人(男性) |
行者(山伏) |
巫女(山伏の妻) |
動物霊 |
| 近代 |
山人,山姥 |
俗人(女性) |
前座(男性) |
中座(男性) |
祖霊 |
加藤九祚(編) 1984 日本のシャマニズムとその周辺 日本放送出版協会 に基づいて一部改変
このように見ると,修験道は近世以後,動物霊の「憑き物信仰」と密接な関係にあるようである。下品の験者の中には,蛇,狐(野狐),犬神などの動物霊を駆使して,人に憑けたり落として荒稼ぎをしていた者もいただろう。
また,修験道は稲荷=狐=荼吉尼のイメージ連合にも一役買っているふしが認められる。稲荷・・・狐・・・化け狐・・・恐いという連想が今でも生きているのは,一つには飯綱使いなどの悪質修験者が人々をたぶらかしていたことに由来する面もあるのではないだろうか。
江戸時代には地域社会に修験者が密接なつながりを持っていたこともあり,庶民向けの現世利益的加持・祈祷を引き受けていたようである。つまり,これが拝み屋の源流の1つとなるわけである。実際,現代でも四国の拝み屋には石鎚山系の修験の流れを汲む人々が結構いる。山から里へ下りてきた修験者が定住したのが拝み屋だとすれば,この業界のドロドロの原因もある程度納得がいくように思うのだが,いかがなものだろうか?
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