歴史・民俗

日本語のルーツ(2)

さて、中国や中国や朝鮮半島から流れてきた渡来系弥生人は、自分の故郷の言葉を捨てて(多少は現地人に影響は与えたはずだが)、「郷に入り手は郷に従え」で、現地人の言葉を使うようになったと考えられている。それは、日本人がアメリカに住めば英語を話すようになると同じ論理だ。

でも、縄文語って一体どんな言語なのかさっぱり手元になかったので、またまたよそ道にそれて、いろいろネットで検索したら、この曲が縄文語をほぼ正確に再生して歌われていることを知った。古言語学の研究者の協力で完成した曲だ。

http://www.youtube.com/watch?v=QPaeRCEnP0A

これって、昔TVのドキュメンタリー番組のテーマ曲として使われていたのでよく覚えてる。でも、何言ってるかさっぱりわかりゃしねえ、琉球語かと思ってたら、縄文語を再現したものだった。動画には英語のテロップが出ているので、めちゃ単純な歌詞だと言うことが分かると思うけど、これは現在解明されている、紛れもない縄文人の言葉(音声)である。以下に現代日本語対訳を載せておく。

ただ、これも原縄文語にまではたどり着いてはいない。少なくとも、上古特殊仮名遣いと地方方言分析(後期縄文語)から割り出された「音」である。

また、「お薦めCD」にもリストアップしているので、興味のある方は、そこをポチッとしてください。

『神々の歌』 by 姫神

A-ba,naa-nga MAPO
(私の名前がマポです。)

A-ni,nono to,aya to,ine to,ye to,
(私に、祖父〔祖母〕、父、母、)

oto si bu-i-bu-mu
(兄〔姉〕と弟〔妹〕が居ます。)

単にこのフレーズの繰り返しだ。

ちなみに、東北弁やアイヌ語に近い言語が縄文語の方言であり、北から、南から西から入ってきた言葉が混合されて方言はあれど本土縄文語が形成されたらしい。渡来系弥生人もこの言葉を覚えて、列島を東進して在来系日本人と交流していったと考えられている。

縄文語では「私」は「アー」、「あなた」は「ナー」、「天空」は「アマ」、「海」は「ワタ」、「星」は「ボツィ」と発音した。日本の神にも天照大神(アマテラスオオミカミ)、海神(ワタヅミノカミ)という神名も見えるので、これは確かだと思う。

さらに、身体の一部をさす言葉はこれだ。

髪:カミ
顔:トゥラ
耳:ミミ
鼻:パナ
くちびる:ピル
手:タア
胸:ムナ

という具合に、何となく理解できる単語も多い。

じゃあ、上記の歌に出てくる主人公「マポ」は、日本語学的に発音がPがFに、FがやがてHに変容して現在至るので、マポ=MAPO=MAFO=MAHO=真穂ということになるのかな?

いずれにしても、先の記事に書いたとおり、方言というのはその謎を解く重要な鍵になっていると言うことだ。

ならば、私の育った地域の方言で言わせてもらうと、「おんどれ、そんな言葉も知らへんのけ、われ。」(おい、君は、そんな言葉も知らないのかい?)そんな上品なものやありまへん。大阪弁でも一番ドスのきいた言葉の河内弁やんけ。

ま、それはともかく、この歌を聴いてもらって、古代に思いをはせてみるのも一興だと思う。

(続く)

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日本語のルーツ

今度の記事は、以前、連載していた「日本人のルーツ」シリーズの第2部と位置づけ、言語に関するテーマについて書き綴っていくことにする。

最近の日本語は、かなりグローバル化しており、外来語の流入や、短縮語も増えて、どこに行ってもだいたい同じように聞き取れるし、意味も分かる。世代間ギャップによって、短縮語の意味がオヤジには不明なときがあるものの、よく文脈を聞き取っていればだいたい若い連中のボキャブラリーくらいはすぐ覚えられる(だって、語彙が少なすぎだしな)。

また、職業柄レポートや試験の答案を読むことがあるが、日本語が正しく書けている学生はこの20年間で激減しているといのが私の経験である。話し言葉も、書き言葉も崩れてしまっていることは長年大学教育の現場にいて実感できる部分である。

私たちの話したり書いたりする日本語は一体どのようにして形成されてきたのであろうか?昔の人はどのような言葉を話していたのであろうか?

上代特殊仮名遣い(万葉仮名)の時代には、無理矢理漢字を当て字にして当時の日本語の音に似た漢字で表現していたので、どうにか奈良時代の頃の発音、音声のパターンは分かる。

でも、私が知りたいのは、漢字導入以前の縄文、弥生時代の人間が日常的に使っていた「古日本語」である。無文字時代の言語に興味にあるのだ。

神代の時代の言葉ってどんな言葉なんだろう?四国で拝み屋稼業をしていると、霊媒の「ご神託」がしょっちゅう降りてくる。本人は全くの無意識で神の言葉を話すわけであるが、深層意識から出てくる言葉には、「古文」などで習った言葉だけじゃなく、全く理解できない言葉も出てくることがある。霊媒に言わせれば、聞いたこともない言葉が降りてきて、意味が分からないので、逆に神様に尋ねると、身振り手振りやビジョンで意味を教えてくださることもあるという。

また、私たち神職が奏上する祝詞にしても古語である。その意味はおおむね理解できるが、細かいところまでつついていくと「大祓詞」に出てくる言葉の「音」や意味に注意して唱えないと、それは真の意味での「言霊」にはならないので、祝詞の中に隠されている「古日本語」についても調べておく必要を感じている。

以上の理由から、今回は日本語のルーツをたどる辿ることにした。

私が子どもの頃に住んでいた家の近所に、島根県松江市出身のおばあさんがいた。そのおばあさんの話す言葉は、当時関西に住んでいた私にはほとんど分からず、いわゆる「ズーズー弁」だった。ズーズー弁というと東北地方の方言全般に見られる特徴的な発音だと思っていたので、なんで松江の人の話し言葉がズーズー弁なのか、子ども心に不思議に思っていた。

今では、国語学や比較言語学も発達しているので、「日本人のルーツ」で述べたDNA分析による人類の移動の痕跡と考古学的発見なども横断しながら、日本人の言語についてもある程度の成果が得られるようになっている。

小泉保氏の「縄文語の発見」という本が、その際非常に参考になる。氏はまず各地方の「方言」に注目して、その方言の分析を通じて、弥生語や縄文語の片鱗を見つけ出すという途方もない業績を残している。また、国語学の立場からは大野晋氏の「日本語はいかにして成立したか」という本も参考になった。

まずは、小泉氏の業績に注目して方言から辿る「原日本語」の旅に出ることにしよう。

Hougen まず、結論から先に述べると、琉球諸方言、九州方言、東北方言、山陽/東海方言、関東方言は縄文語がその底流にあると言うことだ。

縄文語は旧石器時代からの原縄文語を起点として形成され、前期九州縄文語に受け継がれ、そこから「東進」、「北進」を辿る。表日本、裏日本という言い方には私は抵抗を感じるので、太平洋側、日本海側の2つのルートをたどりながら、東進、北進を続けていき、各地方の昔ながらの方言になっていった。ただ、出雲地方は、大和政権に取り込まれてしまったが、言語は頑なに守られ決して大和言葉に服従することはなかったわけである。つまり、日本海側に沿って東北地方までが同じ言語を話す縄文語圏だったわけである。いわゆる「越」の国々、北陸地方にもかつては東北方言的な発音を伴った方言があったはずだ。

これに対して、後期九州縄文語は、渡来系弥生人の話す言語(おそらくは古代中国語、古代朝鮮語)の影響を受けながらも「原弥生語」を形成する土台になっている。渡来人の言語が直接大和言葉になったのではなく、九州地方北西部に住んでいた縄文人がある程度彼らの言語を取り入れつつも、元々あった縄文語をベースに関西地方に伝播していったのであろう。

私は渡来系弥生人を中枢に置く「邪馬台国」は当初は北九州を本拠地としていたが、人口増加に伴って、瀬戸内海を通って河内の国に上陸し、そこから奈良に本拠地を定めて「ヤマト」になったという印象をもっている。そのときに、弥生語も形成されたわけだが、その言葉はいわゆる「関西弁」になっていった。

こう考えると、原縄文語がどのようなものだったのか想像の範囲でしか分からないが、私が子どもの頃に聞いた近所のおばあさんのしゃべる言葉が縄文語系であり、日本海側に広く伝わっていた伝統ある言葉だったのだと今では理解できる。「takasi」という名前を「takasu」としか聞こえないような発音だったのを今でも鮮明に覚えている。

私は関西生まれの関西育ちなので、ほぼ間違いなく渡来系弥生人の末裔だろうと思うが、間もなく米国遺伝子学研究所で、父方のDNAハプログループの分析結果が出る時期にさしかかっているので、それまでは断定しないことにする。

方言がどんどん廃れて行っている現代日本。私たちは今一度、自分の生まれ育った地域の方言に誇りを持ち、その言葉に込められている古代の叡智を見直す必要を感じる。中央集権的国家体制を見直し、「地方の時代」を標榜するならば、堂々と自分の地域の方言を話せばいいわけである。

ちなみに、今私の住んでいる伊豫国は関西方言圏に含まれており、渡来系弥生人の言語の影響を受けている地域である。だから、伊予の国に初めて来たときにも違和感はなかったのであろう。ただ、夏目漱石の「坊ちゃん」に出てくるような「ぞなもし」という方言はすっかり廃れて死語になっている。

(続く)

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日本人のルーツ(6)

ここまでの話は、女性から子どもへと受け継がれるミトコンドリアDNAの伝播、移動のルートに関する話が中心だった。

コメントについては、今後の記事にも関連がある問題も含んでいるので、一通り話が完結した時点でお答えします。

今世紀に入って分子人類学が力を入れ始めた最先端の研究は、男性の持っているY染色体のDNA解析とそれを受け継いだ息子たちがどのように移動、変化していったのかに関する研究である。この10年ほどの間に急速に発展している研究テーマなので、まだまだ仮説がひっくり返る可能性もある。

1.日本に流入してきたY染色体DNAのハプログループ

Y1
人類の起源がアフリカにあることは、周知の事実だが、アフリカを出て行った新人が、どのようなルートを辿って世界中に拡散していったのかについてその大枠を示したのが左の図である。男性の持っているY染色体DNAのグループは、今から6万8千年前に他の世界に向けて旅立っていったことが分かっている。同時に、女性の動きはミトコンドリアDNAの分析によって、同じ時期に「出アフリカ」を成し遂げたことも分かっている。最初のホモサピエンスの出アフリカは男女が同時期に移動を始めたことで始まったわけである。

では、そのうち日本にたどり着いた男性グループは、どのようなタイプだったのか?日本人のミトコンドリアDNAの分布は数多くのハプログループが存在していたことがこれまでの話でもお分かりだろうが、Y染色体DNAのハプログループは、C,D,Oの3つのタイプが人口の90%以上を占めている。一見単純に見えるが、それぞれのハプログループにも細かいサブグループに分類されているので、詳しく見れば、ミトコンドリアDNAと同じように、かなり複雑な構造になっていることが分かる。

①ハプログループO…日本人男性の約半数を占める最大グループ。このグループはさらに20以上のサブグループに分類されているが、日本列島に分布しているのは、O2bとO3と呼ばれるグループである。前者は、朝鮮半島や河北地域に分布しているのに対し、後者は華北から華南にかけて分布しているグループである。

②ハプログループC…本土日本人では10%程度、北海道のアイヌの集団ではそれ以上に多いというレポートも提出されているが、まだアイヌのサンプル数が少なすぎるので、断定的なことは言えない。日本に存在するCグループは、C1とC3の2つのグループである。

C1サブグループは、インドネシアを中心とする地域に頻繁に見られるので、C1系統は南から日本に入ってきたと考えられる。

これに対し、C3サブグループは、沿海州の先住民集団やモンゴルの集団に非常に高い頻度で認められ、南に行くにつれて数が激減する。

このことから、男性の流入ルートにも北方系と南方系が存在するようである。

③ハプログループD…6つのサブグループがあり、日本人に存在するのはD2グループである。地域差はあるものの、日本人男性の30-40%がD2を持っている。D2は、日本人に特有のハプログループである。

2.Y染色体DNAのグループの近隣集団との比較検討

Y3
日本と周辺地域のY染色体頻度を図示すると、左のようになる。

Y2 また、上の図のデータから導かれたY染色体ハプログループの系統図が左に示されている。本土日本とモンゴルが比較的近い距離にある。

これらの結果から、日本人の特異性はハプログループDの出現頻度が非常に高いという点にある。女性から受け継がれるミトコンドリアDNAのハプログループでは、日本と朝鮮半島、中国東北部でよく似ていたのに対し、男性のDNAの分布はそれとは異なるパターンになっていることが分かる。

なぜ、このような矛盾が生じるのか?

1つには、D2は北東アジアには低頻度で見られる。また、チベットではD3系統が人口の33%、D1系統が16%がを占めていることを見いだしている研究がある。

ということは、この分布の偏りは、D2が元々北東アジアに広く分布していたものが、中国を中心とした地域で勢力を伸ばしたハプログループOの系統によって、周辺に押しやられていった可能性が考えられる。チベットでは高い山、日本では海で隔絶された地域でもあるため、前者ではD1,D3系統が、後者ではD2系統がそのまま残ったのではないか。

3.日本国内の地域性

Y4
Y染色体ハプログループの系統図から見ると、日本で主流になっているO,C,Dの3つのグループは、そもそもそもそも系統が離れたものが混在している。A,Bの系統はアフリカに固着して「出アフリカ」を行わなかった系統である。

それに対し、C系統は出アフリカの第1グループ、D系統はその第2グループ、そしてO系統は第3グループというように、異なる時代に他の系統から分岐していった歴史を持っている。したがって、互いにかけ離れた系統の集団が混在しているという事実から、日本列島に移動してきた人の多重的性質が浮かび上がっていると言える。

①沖縄の人々のY染色体ハプログループの系統は、Cが4%、Dが56%、Oが38%という結果が出ている。

②アイヌの場合、少数(16名分)のサンプルしかデータが得られていないのだが、75%がD系統で、残り25%がC3系統であった。

③女性から受け継がれるミトコンドリアDNAの分析からは、日本では古い系統に当たるM7aが高い率を示していた。他の地域に比べて、沖縄に高頻度で見られるハプログループは古代から続くものであると考えられる。

④以上のことから、Y染色体ハプログループDが古い時代から日本に存在する系統、おそらくは縄文人が持っていたものではないかと考えられる。

4.まとめ

征服によってDNAが融合する場合には、基本的にY染色体DNAの方が多く流入する。ここで、もし渡来人が縄文時代から続いた在来系社会を武力制圧したとするなら、その時点でハプログループD=縄文系統は著しく減少したはずである。

現代日本において、ハプログループDが高い率で残っているという事実は、縄文から弥生への移行期に大きな武力衝突もなく、穏やかに、平和に進んでいった。つまり、渡来人が在来系の集団とうまく融合していったということを示しているのではないだろうか?

また、その後の歴史の中でも、日本では特定のハプログループが大きく拡大するようなこともなかったようであり、その意味でも日本の社会は共存・共栄をめざす方向に動いていったのではないだろうか。

大陸と日本に見られるY染色体ハプログループの大きな違いは、その歴史的プロセスの中で起こったことであり、大陸では戦乱や征服が頻繁に起こったのに対し、日本では大陸中央で起こった特定のハプログループの拡張の影響を受けずに、そのまま古い系統のDNAが残ったのだろうと考えられる。チベットにしても、1950年代に政変が起こるまでは、中央部からの影響をほとんど受けない隔絶した環境にあって、そのままD系統が残ったのであろう。

日本人のY染色体は、日本史の中でその頻度を大きく変えるような激しい戦争や虐殺行為がなかったことを意味している。Y系統の人々が他者に対して、受容的で、調和を好む文化を持っていたのではないかと言うことである。

(完) 

参考文献:崎谷満 2008 「DNAでたどる日本人10万年の旅」 昭和堂

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日本人のルーツ(5)

1.北海道の縄文人の特異性

ここまでの話から、新石器時代までに日本に流れてきたさまざまなミトコンドリアDNAのハプログループを持った人たちが、日本に定住して彼らがやがて縄文人になっていったおおよその移動のプロセスが分かったと思う。

この記事では、さらに新しい知見を取り入れながら、縄文人から渡来系弥生人の流入にいたるプロセスについて述べることにする。

Dna4 まずは、現代日本人と縄文・弥生人の近縁関係を示した図を見ると、発起道の縄文人だけがかけ離れたグループになっていることが分かる。形質人類学の観点からは、少なくとも縄文時代中期以降の縄文人は全国的にほぼ均一な形態を持っていることが知られているので、関東の縄文人と北海道の縄文人の集団には大きな違いがあると言える。

これは1つには、北海道の縄文人の歴史の中で、人口を著しく減らすような出来事があったか、他の集団との隔離が起こり、通婚圏が固定化されてしまったために生じた現象ではないかと解釈されている。

ただ、その後の研究で、北海道の縄文人に見られるハプログループD1は、沿海州の先住民にはわずかに見られるものの、現代日本人や東アジアの大多数の集団には見られない特殊な遺伝子であることが分かっている。

このD1遺伝子はむしろアメリカ先住民が持っているものと同じタイプの遺伝子である。形態人類学の見地からは、縄文人やその特徴を色濃く残すアイヌと北アメリカ先住民との間に近縁性が高いと言われているが、従来の研究では北海道のアイヌのDNA分析の結果からは、アメリカ先住民との関係は見出されてこなかった。

この失われたリンクを埋めるのが北海道の縄文人であり、これによりアイヌと北アメリカ先住民とのつながりを想定することができるようになったのである。

2.縄文人から現代日本人に受け継がれたもの

日本人集団独特のハプログループには、M7aとN9bがあることは、すでに述べた。M7aは縄文人の特徴を色濃く残すという沖縄の人に高い出現率があり、関東と北海道の縄文人からも見つかっている。

また、N9bは本土日本の中では東北地方に高く、南に行くほど頻度が少なくなることが示されており、北海道の縄文人の大部分がこの遺伝子を持っていることが分かっている。このことから、少なくともこの2つのハプログループは、縄文人から伝わったものと考えていいことになる。

ただ、N9bについては沿海州の先住民には存在するものの、朝鮮半島の住人からはほとんど見つからない。北海道の縄文人に高率で見つかることから、この遺伝子は北間話襟のルートで入ってきたことが想定できる。ところが、N9bは沖縄の人からも高い出現率で見つかるため、単純に北から南へ伝わったとは考えにくい。

日本の北と南の地域で高く、中央部で低いというパターンを示す遺伝的な形質には、他にも耳垢の研究で見出された結果がある。湿った耳垢を持つ人々の割合は、日本の南部と北部で高く、中央で低いという結果を示している。

このような結果は、渡来系弥生人の日本本土進出で、在来型の縄文人が一方で北に移動し、他方で南九州から沖縄、琉球列島に移動していった結果と考えるべきかどうかの問題と関連づけができないだろうか。つまり、北海道の縄文人と沖縄の人は、元は同じルーツを持っていたという可能性である。

3.縄文人と弥生人の混血はあったか?

これは埴原和郎氏の「二重構造説」に直結する問題である。
Dna6


上の図を見ると、渡来系弥生人、現代の本土日本人、関東の縄文人の3つのグループの遺伝子構造の違いが比較できる。

このデータから見ると、

①渡来系弥生人にはD,Gのハプログループが合わせて約50%にも達していることが大きな特徴である。

②また、縄文人にはなく渡来系弥生人には見られるN9a、C、Z等のハプログループは大陸からもたらされたものであると考えられる。

③現代日本人の各ハプログループの分布は、縄文と弥生のほぼ中間的な分布構造を示している。

④「1.北海道の縄文人の特異性」で示した、別のデータの分析結果らも、渡来系弥生人は本土日本人に一番近く、その上位クラスターに関東の縄文人がかぶさっており、さらに、アイヌ、沖縄人が多層的にかぶさって、1つの大きなクラスターを構成している。

以上の分析結果から、縄文人と弥生人は、DNA構造から見れば系統が異なる集団である。それぞれのグループは独自の歴史を持っていたのであろうが、これらの事実は現代日本人が在来系の縄文人と渡来系の弥生人の混血によって成立したという、埴原の二重構造説を強く支持している。

しかし、このデータだけで二重構造説が完全に立証されたと考えるには、何点か限界があることも付記しておく必要があるだろう。

①ミトコンドリアDNAは母系に伝わるため、もし渡来してきた弥生人が男性中心の集団だったとすれば、彼らは在来系の縄文人女性と結婚して子孫を残すことになる。したがって、渡来系弥生人の構築した社会といっても、ミトコンドリアDNAは縄文系女性の系統を引いたものになるはずである。とすれば、このデータは、北部九州と関東以北の地理的な隔離によって引き起こされたハブログループの偏りを反映した結果と言うことになる。

②考古学者の立場からは、北部九州の早期弥生時代の遺跡から出土した朝鮮半島系の土器は全体の10%程度であると見積もられている。しかも、この種の土器が出土するのは、玄界灘に面する大規模な遺跡からだけで、その他の早期弥生時代の遺跡からは見つかっていない。ゆえに、考古学者は早期弥生時代の渡来人の数を全体の10%程度と考えている。

とすれば、早期弥生時代に多数派だった縄文系の血を引く在来系の住民が水稲稲作農耕と金属器という大陸系の文化を受け入れて「弥生系縄文人」になったと考えるのが、考古学的な見解である。

しかし、もしこの仮説が正しいなら、弥生時代にも縄文系のハプログループが引き継がれていくことになるし、先述したデータの解釈も、渡来系弥生人と関東縄文人の、縄文時代から続く地域差を表してることになる。

③これに対する反論として、人類学の立場からは、渡来系弥生人と縄文人の形質は、いくつかの点で大きく異なっており、中国や朝鮮半島の遺跡からは渡来系弥生人とそっくりの人骨が見つかっている。したがって、日本の在来型縄文人が生活の変化によって弥生人的な形質を持つようになったとか、日本に見られる弥生人の形質が独自に縄文人から変化して形成されたという見解には無理がある。

人類学では弥生時代の開始期から、渡来系弥生人が出現する中期までに、これまでの弥生時代の編年では、わずか200年しかないため、100万人規模の多数の渡来人を想定してきた。これに対して、考古学では多数の渡来人を想定しなくてもよいと考える人が多い。

④その後、中橋隆博氏(2005)の研究によれば、人口シミュレーションの研究により、農耕民である弥生人の人口増加率が狩猟採集民である縄文人よりも高いとすれば、最初の渡来者が少数であっても、数百年で在来系の集団の数を上回ることが示された。これは世界中の先住民社会の研究で、一般に狩猟採集民よりも農耕を受け入れた集団の方がおじなべて、人口増加率が高いという知見に基づいている。

最近では弥生時代が始まった時期が従来の学説よりも500年以上遡るという研究も出てきた。とすれば、最初に渡来してきた渡来人が少数で、人口増加率が低いと見積もっても、いずれ狩猟採集民の縄文人の人口を上回ることは確実に推計できる。

4.まとめ

以上の議論から、弥生時代の開始期に渡来してきた弥生人が数を増やしていき、その周辺の在来系の集団を少しずつ取り込んでいったと考えられる。この状況設定では、常に多数派の渡来系の集団に少数派になった在来系のDNAが取り込まれていくことになるため、渡来系のDNAが主体となって存続していったことになる。

このように、日本人のルーツは、多種多様なDNAを持った集団が様々なルートから列島に入ってきて、その中で定住した人々が独自の歴史と文化を築いて縄文人の原型になっていき、やがて渡来系弥生人の到来によって、少しずつ在来系の集団を取り込み、(中にはそれに離反、抵抗した集団もあるようだが)、北部九州を起点に西から東へと混血を繰り返しながら、現代日本人の源流となっていったと考えるのが適切であろうと考えられる。

ここまでは、母系から受け継がれるミトコンドリアDNAの解析結果から導かれる結論であり、父系から息子へと受け継がれるY染色体遺伝子の研究成果にまでは触れていない。

以後、最新の知見を取り入れながら、さらに日本人のルーツの謎に迫っていきたい。

(続く)

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日本人のルーツ(4)

1.ミトコンドリアDNAの地域差

ここまでの話から、女性から伝わるミトコンドリアDNA全塩基配列のパターン分析をした結果、日本人の直接の祖先を考えると、東南アジアと東アジアを源郷としており、その他にも少数ながら、別ルートでの日本列島への流入も観察できることが分かったと思う。つまるところ、日本人のルーツ探しは、アジアにおける大きな人の流れの一部として見るのが望ましいと言うことである。

現代日本人の持っているミトコンドリアDNAのハプログループの成立とその拡散は、特に東アジアでの地域集団の成立の物語にもなるわけだ。

それでは本土日本人と近隣の地域集団との類似性(相違)はどうなっているのか?
Dna1

篠田(2007)より引用

このグラフ(クラスター分析)を見ると、中国東北部、朝鮮半島、本土日本人のミトコンドリアDNAのハプログループはほぼ類似していると見なすことができる。沖縄の集団は少し離れた距離にあるが、本土日本人との近縁関係を持っていることも分かる。

一方、中国南部の地域集団と台湾先住民のハプログループの構成は、非常に類似しており、本土日本人とは明らかに異なっていることが分かる。

中国東北部、朝鮮半島、本土日本に住む人たちは、言語も違うし、国家が成立してから長い時間が経過しているため、ミトコンドリアDNAのハプログループが類似しているという結果を奇異に思う人もいるかも知れない。

しかし、これは同じハプログループを持っている地域集団がやがて異なる言語を持つように分化していく前の姿をとらえていると考えるのが妥当な解釈である。

ここで、すでに紹介した埴原学説=「日本人の二重構造論」では、形質人類学の立場から、旧石器時代人につながる「東南アジア系の縄文人」が居住していた日本列島に、東北アジア系の渡来系弥生人が流入して徐々に混血していき、現在に至るという仮説が提案されている。

これに対し、遺伝学の立場からは、現代日本人は基本的には北方系の遺伝子的要素を持っていると結論づけており、両者の論点が一致していない。

この点について、篠田氏は

①よくデータを見ると、南方系の遺伝的要素であるハプログループBの頻度が朝鮮半島や中国東北部に比べて高い。
②ハプログループM7aやN9bのように、日本にしか見つからない遺伝的要素もある。

ということから、単純に縄文人が北方系の集団と一致しているとは結論づけられないと述べている。

かといって、埴原学説のように、単純に縄文人を南方系の集団であると位置づけることには、データとの矛盾があると述べており、縄文人が単一&均一の地域集団というよりも、もっと地域によって多様性を持っていた可能性を示唆している。

2.沖縄人と南九州人とのつながり

今度は本土日本人から離れて、沖縄、琉球諸島に住む人々のケースについて考えてみよう。

今から1万8千年前の旧石器時代のものとされる港川人は、全身の骨格が揃っている日本最古の人骨として知られている。しかし、沖縄ではそれから1万年以上の間、本土の縄文時代に相当する時代の遺跡が見つかっていない。もっとも古い貝塚時代の遺跡が6000年ほど前のものなので、旧石器時代の人間の遺伝的要素が現代の沖縄人に受け継がれているかどうか分からないのが現状である。

沖縄では、貝塚時代が本土日本が弥生時代になっても続き、12世紀になってグスクと呼ばれる城が造られるようになる頃に終わった。この時期になって沖縄でも農耕が行われるようになり、グスク時代以降、急激に沖縄の人口は増えた。

以下に、沖縄の人々のルーツについて、これまでに分かっている知見を織り交ぜながら述べてみよう。

①地理的な位置関係から、沖縄の人と台湾先住民との密接な関係が予想されたが、データは両者の間に共通する遺伝的要素が存在しないことが分かっている。宮古島や八重山諸島など先頭諸島と沖縄本土と区別して、データの分析を行う必要があるが、先頭諸島のデータがないので、その関係は分からない。

②貝塚時代以降の人の流れは、台湾などの南方からではなく、本土(南九州)から流れてきた可能性の方が高い。最初に沖縄に定住に成功した貝塚時代の人々もそのルーツは南九州にあると考えるのが妥当である。南九州(種子島)には、縄文時代から北部九州とは異なった集団が住んでいたことが分かっている。その中に沖縄へ渡っていった人々がいたのかも知れない。

③沖縄と本土日本との最大の違いは、沖縄におけるハプログループM7aの突出にある。M7aは非常に古い時代に南方から日本に入ってきたグループである。このハプログループM7aを南方系の縄文人のDNAだと考えれば、沖縄の地域集団は、北海道のアイヌと並んで縄文人の形質を色濃く残しているという形態人類学者の唱える「二重構造論」とも一致する。

Dna2_2 ハプログループM7aの分布図(篠田、2007)

沖縄を中心に北に向かうほど頻度が減少していることが分かる。縄文人の北上ルートを暗示しているデータかも知れない。

3.北海道先住民のルーツ

①北海道先住民であるアイヌについては、すでに述べたように、渡来系弥生人の影響をあまり受けず、在来の縄文人の特徴を色濃く残した人々であるとされている。ただし、アイヌも外部からの文化、すなわちオホーツク文化の影響を受けたことが明らかになっている。

②ゆえに、アイヌのケースも単純に縄文人の延長として残った人々ではなく、独自の成立の歴史を持っていると考えるのが妥当である。

③北海道の縄文人骨からは今のところ、ハプログループYを持つものが発見されていない。これに対し、現在のアイヌにはハプログループYを持っている人の割合が高く、そのルーツをオホーツク人に結びつける根拠になっている。

④ハプログループN9bはM7aと同じく、日本以外ではほとんど見られないミトコンドリアDNAのグループだが、M7aほど著しい傾向ではないものの、北に行くほど増加傾向にある。これは、N9bが北から侵入した集団からもたらされたものである可能性もある。

Dna3

地域別に比較したM7aとN9bの出現頻度

4.まとめ

以上のデータから、日本人=本土日本人+沖縄人(琉球人)+アイヌのルーツと地域差について見てきたが、縄文人になっていった人々にも多様性があり、沖縄、アイヌの中でも独自の変化(小進化)が生じていることが分かるだろう。

また、別のデータからは、日本の縄文人と同じDNA構造を持つ人々が朝鮮半島に住んでいたと考えられるものも存在する。

これまでの歴史観だと弥生時代になって、突然移民が朝鮮半島を経由して流れ込んできたかのようなイメージがあったのだが、最近のデータではすでにもっと遡って縄文時代から朝鮮半島と日本との間の交流があったことが分かっている。

したがって、少なくとも、北部九州と朝鮮半島南部は、同じ地域集団だった可能性も浮上してくるのである。

今では「国境」を基準に人の集団を区別してみてしまう傾向が私たちにはあるけれど、ここで論じている時代は、国境さえもなかった時代の話なので、少なくとも縄文時代までは、国家という枠に縛られることなく、人々はフリーパスで往来していたのであろう。

(続く)

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日本人のルーツ(3)

日本人の持つミトコンドリアDNAー母系から受け継がれるDNAパターン

この記事では、自然人類学の一領域である分子人類学の最近のデータに沿いながら、ここまで述べてきたことをDNAを基準にした話にまで広げて展開していくことにする。

田中雅嗣氏らが2004年に発表した論文によれば、現代日本人約700名のミトコンドリアDNA全塩基配列を決定している。これほどの数のサンプルからデータが集まれば、日本人のDNAの持っている特徴をほぼ的確に把握できることになる。

2006年時点では、これが6000人分のデータにまで増えており、世界的に見てもこれほどの数のデータが報告されている国はなく、このデータを分析することによって、日本人のルーツを解明するための信頼性の高い研究が可能となった。

ミトコンドリアDNA全塩基配列を対象者から採取して、その遺伝子コードの突然変異を分類の基準として調べることにより、対象者全体の特徴的なグループを割り出すことができる。これが、ハプログループという概念である。ちなみに、ミトコンドリアDNAは母から子へと受け継がれることが分かっているので、これによって母方の祖先に関する情報も分かるのである。

ただ、ミトコンドリアDNAの分析だけでは、その一族に娘が生まれ続けないかぎり、DNAの拡散が生じてしまい、最初の「先住者」の遺伝子は4代目には16分の1になり、ほとんど初代の先住者の遺伝的な形質がなくなってしまう。

そこで、より正確なヒトの集団の系統や移動の様子を把握するために、男性の持っているY染色体の遺伝的特徴も併せて分析することで、父から息子への受け継がれる形質データの質を高めるという研究手続きが必要になってくる。このような地道で多大な労力も必要な作業を繰り返すことで、着実に研究が進んでいっているわけである。

Sc0004379d_2 図…篠田謙一(2007)より引用





さて、上の図は現代日本人の持っているハブログループの分布図である。

1.最大勢力ハブログループD…このうち、最も多いグループは、"D"の記号で示されているものである。D型のグループは最初、アメリカ先住民の中に見つかり、ついでアジアで見つかった。D4+D5の2種類のハブログループだけで、日本の人口に占める割合は、約40%に達する。

D型のハブログループは、東アジアに普遍的に見られるもので、中央アジアにも多数見つかっている。特に、朝鮮半島や中国東北地方の集団でも、D4,D5の2つが人口の30-40%を占めている。

このグループの誕生は、今から3万5千年以上前のことだと推定されており、南回りで東アジアに入ってきたハブログループの中から、最終氷河期が最寒期を迎える以前に誕生したと考えられている。ただし、D4が日本を含む東アジアの東北部に主として分布しているのに対し、D5は中国南部を中心に分布している。

2.環太平洋に拡がるハプログループB…日本人の7人に1人がこのグループに分類される。このハブログループもアメリカ先住民で最初に見つかったものである。このグループは、4万年前に中国南部で誕生したと推定されている。インドから東南アジアに拡散していった集団(ハブログループR)の1つから生まれたものと考えられる。

このグループの特徴は、誕生の地である中国南部から東南アジアにかけて、人口に占める割合が高いことだが、それ以外にも南米の山岳地帯や南太平洋の島々の集団にも多いことが分かっている。

ただし、このグループの拡散の時期は異なる時期に、異なるルートを辿って移動したものと考えられている。

a)アジア南部からユーラシア大陸の沿岸地帯を伝って、北上を続け、当時陸続きだったアメリカ大陸に入り、海岸沿いに南下を続け、南米大陸にまで到達したグループ。

この進路の途中には当時やはり陸続きだった日本列島も含まれているので、このグループの一部が日本列島にとどまった可能性があり、とすれば、一番最初に日本列島に入ってきた「最古の日本人」である可能性も出てくる。

b)南太平洋への拡散は、今から約6000年前に始まった。現在の南太平洋の先住民は、ほとんどすべてがこのハプログループを持っている。

c)中国南部または台湾から農耕技術を携えて東南アジアの海岸地帯に展開した集団の主体。

d)メラネシアの海岸地帯に到達したグループの中には、やがて遠洋航海の技術を身につけ、外洋性のカヌーをこいで、南太平洋に到達した人々がいた。その中からさらに少数のグループがポリネシアの島々から南米大陸の西海岸に至った人々もいる。古代アンデスの住民とポリネシア人との遭遇が数万年の時を隔てて発生した。

e)縄文人との関係…以前は人骨の形態学的な研究から、縄文人の南方起源説が提唱されていたが、現在では拡散の方向と時期から見て、縄文人との関係は薄いと考えられている。ハブログループBの人々は農耕民であり、狩猟採集生活をしていた縄文人との共通点が見つからない。

むしろ、縄文人との接点は、最初に北上を開始して、アメリカ大陸にまで行ったハブログループBの人々が日本列島に定着し、後に縄文人になった可能性が高い。

3.日本の基底集団を生むハプログループM7…ハプログループM7には、a,b,cという3つのサブグループがある。M7aは主として日本に、M7bは大陸沿岸から中国南部地域に、M7cは東南アジアの島しょ部に分布の中心がある。M7が生まれたのは、4万年以上前、各サブタイプが生まれたのが2万5千年前と計算されている。当時は地球の寒冷化にともない、海水面は低下していたため、公開から東シナ海にかけては広大な陸地が出現していた。M7の起源地は、現在では海底に沈んでいるこの地域だったと推定されている。

a)M7aは、琉球列島を伝って日本本土に入ってきたと考えられる。本土日本人に占めるM7aの比率は約7%にすぎないが、沖縄になると約25%に増える。

b)M7aを持つヒトは、日本と朝鮮半島以外にはまず存在しない。

c)M7bも人口に占める割合は少ない方だが、日本列島に広く分布しているので、日本にはM7aと一緒に入ってきている可能性がある。ただし、彼らは日本だけでなく大陸沿岸から内陸部へも拡がっていったようである。

4.マンモスハンターの系譜ハプログループA…このグループは日本人では7%を占めるだけで、ユーラシア大陸全体の分布も中央アジアから北アジアに分布が限られている。しかし、アメリカ大陸では普遍的に見られ、北東シベリアから北中米の先住民では人口の過半数を占めている。

a)ハブログループAの起源地は現在のバイカル湖周辺とされ、その成立は3万年ほど前であると推定されている。

b)旧石器時代のシベリアでは、マンモスハンターと呼ばれる狩猟民が暮らしていたが、その中にはハブログループAを持っていたヒトが多数を占めていたのであろう。

c)ハブログループAから分岐したA2グループはやがてアメリカ大陸に渡っていった。

d)ハブログループAから分岐した他のサブグループとしては、A4,A5がある。前者は東アジア全域に広く分布しているが、後者は朝鮮半島と日本に限定されるサブタイプである。

e)A5タイプは分岐年代が7000年±2800年前という若いグループである。バイカル湖付近から一直線に朝鮮半島にまで南下して、日本の縄文時代以降に入ってきたようである。

5.北方に特化する地域集団ハプログループG…ハブログループGは日本の人口の約7%を占めている。このグループにはG1からG4までの4つのサブグループが存在する。

a)G1タイプは、本土日本人、アイヌ、朝鮮半島に少数見られる。

b)G2タイプは、中央アジアに分布の中心があり、中国南部や東南アジアではほとんど見られない。

c)G3タイプは、明確な分布領域を持たず、中央アジア、モンゴルなどを中心に少数が分布している。

d)その他カムチャッカ半島や北シベリアの先住民の間ではハブロタイプGの特殊なタイプを高い割合で持っている集団がいくつかある。

e)ただし、このグループはアメリカ大陸には渡らず、南に拡散した様子もない。分岐年代も新しく、最終氷期の最寒期以降、ヒトの北方への再進出の際に誕生したものと考えられる。ゆっくりと時間をかけて、北東アジアに拡散していった。日本には朝鮮半島を経由して入ってきたと考えられる。

6.東南アジアの大集団ハプログループF…このグループの日本人に占める割合は約5%。分布の中心は東南アジアにある。

a)このグループは、大移動をせず、新大陸へも南太平洋にも進出していない。

b)中国南部や台湾の先住民には比較的高い頻度で見られる。

c)日本を含めた東アジアの各地に細々と展開していった。

7.北方ルートの末裔ハプログループN9…N9a、N9b、Yの3つのサブグループがある。日本での頻度は、順に4.6%、2.1%、0.4%と少数派に属する。

a)このうち、N9bの分布には著しい特異性がある。このタイプは、基本的には日本以外ではほとんど見つからないということである。

b)日本国内でも、北に行くほどN9bの人口に占める割合が増える傾向が認められる。縄文人の形成との関連でいえば、北からの流入ルートを表しているかも知れない。

c)YはN9の枝分かれしたDNAタイプであり、特に北東シベリア、さらにいえば沿海州の先住民の集団がこのハプログループに属している。

d)Y型は、本土日本人にはほとんどいないが、北海道のアイヌに多く含まれていることが分かっている。これは、「オホーツク文化」(5世紀〜10世紀)が栄えた時代に沿海州アムール河流域に住んでいた漁撈民とアイヌとの間に人的な交流があったことを意味しており、沿海州の先住民のDNAがアイヌに受け継がれた結果である。

8.北方漢民族との関係ハプログループM8a…このグループにも、M8a、C、Zのsつのサブグループがある。日本人に占める割合は、順に1.2%、0.5%,1.3%とわずかしか存在しない。

a)M8aは中国のいわゆる漢民族に一定の割合で現れ、特に北の集団での出現が目立つ。

b)中国では新石器時代以降、黄河流域から南に向かって集団が移動したとされている。南下した集団は多数派のハブログループDと共に移動したのではないかと考えられている。

c)縄文から弥生時代への移行期に伴って、渡来系弥生人の日本本土への流入が想定されているが、彼らが一体どこを源郷としてどのくらいの規模で渡ってきたのか、いまだにはっきりしない点も多い。

d)水稲稲作の起源地である長江流域の新石器時代〜宗代にわたって発掘された人骨と渡来系弥生人の人骨の比較調査を行った結果、M8aのサブタイプを持つ人骨が見つかり、これらの人骨のDNA配列と一致するものが渡来系弥生人と古代漢民族との間では見つかったが、朝鮮半島の人骨との一致例はいまだに見つかっていない。

e)もし、渡来系弥生人が朝鮮半島だけを経由して流れてきたとするならば、M8aグループの出現率が日本と韓国との間で大きく異なるはずである。しかし、韓国においてもM8aグループの出現率は日本人1.2%に対し、韓国では1.7%程度でほぼ同率と見なしてもよい結果が見出された。

f)以上の知見から、過去において朝鮮半島を経由しない別の流入ルート。つまり、渡来系弥生人の光南ルートの存在を示唆するものと考えられる。古代中国の漢民族と日本との直接の結びつきが考えられる。

その他、日本人では少数派のハプログループとしては

9.ハプログループC…中央アジアの平原に分布を広げたグループ。いわゆる遊牧騎馬民族がその代表格。

10.ハプログループZ…アジアとヨーロッパを結ぶ人々。ヨーロッパと極東アジアにまたがる分布域を持っている。北極海に面した先住民の集団を介してヨーロッパまで伝わっていったDNA。

11.ハプログループM10…北方アジアにつながる系譜。日本では1.3%と少数派だが、チベットでは8%を占めている。チベットから中央アジア、朝鮮半島、日本へと続く北アジアの道が見えてくる。茨城県取手市にある中妻遺跡から発掘された100体ほどの縄文人のミトコンドリアDNAのハプログループがM10だったことは特筆に値する発見である。さらに分析を進めると、これらの人骨の多くはバイカル湖周辺のブリヤート人の持つDNA配列と一致した。これにより、縄文人と中央アジアとの接点が見つかったわけである。

12.ハプログループHV…日本の中のヨーロッパ人の系譜。日本における出現率は1%にも満たないが、この結果は明治以降、日本にヨーロッパ人の女性が流入してきた結果と解釈されている。江戸時代以前に一定数のヨーロッパ人女性が日本に渡来した結果と考えるのは困難である。

以上、ミトコンドリアDNA全塩基配列の分析結果に基づいて、日本人のルーツを辿ろうとしたわけであるが、研究結果は逆に日本人を形成したDNAには多種多様なものがあり、それが幾重にも重なって、とても複雑な構造になっていることが分かるだろう。

縄文人や弥生人の問題を考える上でも、分子人類学の知見は有用だと思うが、これは考古学、歴史学、民俗学などの知見とクロスさせながら、多角的に検証していくべきテーマである。現時点では、そのような協力体制が日本では十分に確立されていないと篠田氏も述べており、研究者の縄張り意識やそれぞれの主張のぶつけ合いで終わるのではなく、得られた知見を総合的、俯瞰的に見る視点が必要だと私は思う。

(続く)

参考文献:篠田謙一 「日本人になった祖先たちーDNAから解明するその多元的構造」NHKブックス,2007

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日本人のルーツ(2)

 

弥生時代(やよいじだい)は、北海道・沖縄を除く日本列島における時代区分の一つであり、縄文時代に後続し、古墳時代に先行する、およそ紀元前10世紀中頃(ただしこの年代には異論もある)から3世紀中頃までにあたる時代の名称である。具体的には、稲作技術導入によって日本での水稲耕作が開始された時代である。

1.従来の説では、紀元前3世紀から3世紀中葉までを弥生時代と定義してきたわけであるが、近年の研究成果は、中国での稲作文明そのものの起源がどんどん遡っていき、水稲耕作が始まったのは長江下流域で、約6000~7000年前にまで遡っており、陸稲耕作に至っては、長江中流域で約10000~12000年前にまで遡っている。

2.近年、DNAの研究が進み、渡来系弥生人の多くは中国大陸の長江流域、山東省付近から来たと言われている。 更に遡ると現在の中国の青海省付近にまで遡ることができるという調査結果がある。

3.国立歴史民俗博物館の研究グループによる炭素同位対比を使った年代測定法を活用した一連の研究成果により、弥生時代の開始期を大幅に繰り上げるべきだと主張する説がでてきた。これによると、早期のはじまりが約600年遡り紀元前 1000年頃から、前期のはじまりが約500年遡り紀元前800年頃から、中期のはじまりが約200年遡り紀元前400年頃から、後期のはじまりが紀元 50年頃からとなり、古墳時代への移行はほぼ従来通り3世紀中葉となる。

4.弥生時代の開始についてはかつて中国の春秋戦国時代の混乱と関連付ける考えがあったが、弥生時代の開始年代を繰り上げる説に関連してこれを否定するか、あるいは殷から周への政変に関連付ける考えが検討されるようになった。

5.弥生人の特徴は、縄文人と比較すると、顔立ちは、面長で、眼窩は鼻の付け根が扁平で上下に長く丸みを帯びていて、のっぺりとしている。また、平均身長も162~163センチぐらいで、縄文人よりも数センチ高い。これらの人骨資料のほとんどは、北部九州・山口・島根県の日本海沿岸にかけての遺跡から発掘されたものである。

6.近年、福岡県糸島半島の新町遺跡で大陸墓制である支石墓から発見された人骨は縄文的習俗である抜歯が施されていた。長崎県大友遺跡の支石墓群から多くの縄文的な人骨が発見されている。さらに瀬戸内地方の神戸市新方遺跡からの人骨も縄文的形質を備えているという。

ただ、福岡市の雀居(ささい)遺跡や奈良盆地の唐古・鍵遺跡の前期弥生人は、渡来系の人骨だと判定されている。つまり、最初に渡来人が来たと考えられている北部九州や大陸系渡来人が移住した可能性のある瀬戸内・近畿地方でさえ、弥生時代初期の遺跡からは渡来系の人と判定される人骨の出土数は少ない。

とすれば、水田稲作の先進地帯でも、渡来系の人々ではなく、縄文人が水稲耕作を行ったのではないか。絶対多数の縄文人と少数の大陸系渡来人との協同のうちに農耕社会へと移行したと考えられる。

という風に、私が学校で習った歴史の教科書は、今では何の役にも立たなくなっている状況である。縄文と弥生を区別する基準である水稲稲作でさえも、弥生系渡来人が大陸からやってくる前に、縄文人が知っていた可能性も出ている。

まあ、歴史というのは革命でもない限り1日で体制がガラリと変わることはない。地域的な多様性もあって、特定の地域では最先端の技術が外部から持ち込まれている可能性もあるし、基本的に日本人は海の民であり、船で自由往来していた訳なので、特定の地域に新しい知識や技術が流入したと考えれば、問題はない。歴史というのは全国一斉に変わるものではない。まず、局地的に変化、刷新が起こり、その後はゆっくりと平均化して文化が伝播することもあるからだ。

ということを予備知識において、今度は弥生人のルーツについて検討してみよう。

少なくとも、紀元前3世紀〜後3世紀までの600年間に注目すれば、人口が爆発的に増加しているという証拠がある。

旧石器時代から縄文時代までは、人々は小さな集落に分かれて暮らしていた。せいぜい1集落が20-30人規模のものがメインである。

それが、弥生時代になると、たとえば佐賀県の吉野ヶ里遺跡のように都市化した「クニ」さえもできるようになった。

考古学的には、大陸からの日本列島への渡来は、縄文後期ないし晩期(今の学説でいえば弥生早期)から始まっていたことになっている。

しかし、自然人類学の見地からは、「渡来系弥生人」の数は、紀元前3世紀から急速に増加した。その直接の原因は中国や朝鮮半島における動乱の影響が考えられる。敗北者や難民がボートピープルになって、何波かに分かれて日本列島に到達したのであろう。

上田正昭氏によれば、「渡来系弥生人」の数は、紀元前3世紀〜後7世紀までの約1000年にわたって続き、渡来人の中には権力者やその一族だけでなく、多くの一般民衆も含まれていたと主張している。

渡来系弥生人の航海術は、予想以上に優れたもので、船客だけでも50人は乗れる大型船まで建造されていた。さらに、古墳時代になると大型の構造船が建造され、大勢の人々を乗せて日本列島に到達している。

渡来系弥生人は、北部九州や山口県の西端地域で集中的に発見されている。しかし、中国地方の他の地域や、近畿地方、さらには少数ながらも関東地方においても渡来系弥生人の特徴を持つ人骨が発見されている。

このように見ていくと、渡来系弥生人の移動速度は意外に速かったということになる。ただ、渡来の規模は必ずしも大集団とは限らず、家族単位で小舟をこいで渡来した人々もいたはずだ。

その渡来地も、北部九州に集中したわけではなく、瀬戸内地域や近畿地方に直接至ったケースもあるだろうし、さらに日本海沿岸に上陸した人々もいるはずだ。人類学的な観点からは、紀元前3世紀以降の渡来系弥生人と在来系縄文人の二種の集団が日本列島に住むようになった。

渡来系は主として、北部九州を中心とする地域に住み、在来系はその他の地域に分布していた。したがって、日本列島に住むようになった集団は、紀元前3世紀を契機として二重構造を示すようになったのである。

渡来系弥生人の多くは、中国東北部の森林地帯に住み、やがて朝鮮半島に南下してきたツングース系の部族だったといわれる。

また、朝鮮半島自体が紀元前3世紀ころから漢族の攻撃を受けるようになり、紀元前207年に秦が滅びて漢が起こったときに、中国からの多数の難民や亡命者が朝鮮半島に逃げてきた。その後も、313年に高句麗の攻撃によって楽浪郡が滅亡するまで400年間にわたって、朝鮮半島は動乱に明け暮れた。

当然ながら、その中にはさらに日本列島に住むようになった渡来系弥生人も大勢いたはずである。

小山修三は、縄文時代から古墳時代にかけての日本の人口の変動について、コンピュータ・シミュレーションを行っている。その結果、縄文時代中期の人口は約26万人だっtが、後期になると16万人、晩期には約7万5千人にまで激減した。その一因として、気候の冷涼化に伴って、食糧の確保が難しくなったためであろうと解釈されている。

ところが、紀元前3世紀以降になると、人口は急激な増加に転じ、特に西日本での人口増加が著しくなった。縄文時代全体での人口増加率は0.1%以下ないしマイナス成長だっtが、紀元前3世紀以降は、東日本で0.2%の増加、西日本では0.3%-0.4%ほどに達した。その結果、弥生時代の全国の人口は約60万人、古墳時代には540万人になったと推定される。

縄文時代末期から古墳時代にいたる1000年足らずの間に年率にして0.4%の水準で急激な増加が生じたことになる。

その原因としては、渡来人の流入があげられる。在来の縄文人の自然増加に加えて、渡来系弥生人とその子孫の数が加わることになるわけで、日本全体としての人口増加率を押し上げることになる。

そのシミュレーション結果の一部をグラフで示してみた。縄文人の人口を晩期の値と仮定し、年率0.2%の増加が生じたと想定するケースでのグラフである。このケースでは、古墳時代には圧倒的多数が渡来人とその子孫になってしまう。要するに、本土日本人というのは移民から構成されているわけで、外部からの人の流入を継続しながら、次第に「クニ」ができるまでの規模に膨らんだのであろう。とすれば、私たちの遺伝子の中にも渡来系弥生人の性質(特性)が受け継がれているかも知れない。

Toraijin




(続く)

参考文献:

(1) 埴原和郎 「日本人の成り立ち」人文書院,1995
(2) 埴原和郎 「日本人の誕生」吉川弘文館,1996

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日本人のルーツ(1)

最近私がもっぱら読んでいるのは、分子人類学という領域の本である。人類のDNA解析が進んだ今、ミトコンドリアに含まれている遺伝子の配列パターンをグルーピングして、人類の起源はもとより、アフリカを故郷にする人類の祖先がどのようなルートを経て、移動していったのかについて調べている。

そもそもの興味は日本人っていったいどこからどこまでの範囲をさすのだろう?という素朴な疑問である。日本文化の多層性を考えるにつけて、色んな民族、部族の文化が和合して今に至る日本文化を形成していることは間違いない。私たちの祖先はいったいどのような性質の人々で、どのような暮らしを送っていたのか、科学的なエビデンスに基づいて、自分なりの考えをまとめておきたいと思ったのである。

以前、私は自分の先祖に関する情報を収集しまくり、「自分探し」をやって、親や親戚から大ひんしゅくを買ったのであるが、今ではそれがさらに高じて「日本人」とは一体なんぞや?という日本人のルーツ探しに夢中になっている。

何冊か入門書に始まって専門書まで読破しているのだが、学問の垣根を越えて、科学的な方法論は同じなので、自分の専攻を超えて、他領域で見出された知見を読み解くことは、私にとっては難しい作業ではない。むしろ、自然科学系の論文や本の方が私の頭には理解しやすい。

それでは、まず分子人類学で大きな反響を呼んだ埴原和郎氏の学説「日本人の二重構造説」から紹介しておこう。

埴原氏によれば、「日本人」とは先史時代以来、日本列島、すなわち北海道から沖縄までに居住し、遺伝的に断絶することなく現代までつながっている集団と定義されている。

氏によれば、日本人は単一民族ではなく、少なくとも「複合民族の集団」とされる。

その内訳は、、、

1,本土人…本州、九州、四国など日本列島の広い地域に住み、いわゆる大和文化を共有する人々の集団

2.沖縄人…主として琉球列島に住み、琉球文化を共有する人々の集団

3.アイヌ…主として北海道に住み、アイヌ文化を共有する人々の集団

4.日本人…上記のすべての人々を含む集団

となる。

つぎに、縄文人の祖先についての分析結果である。

2万年以上も前の氷河時代に移動を始めた原アジア人は、人口の増加と共に東アジアの広大な地を様々な方向に移動し、そのれぞれの環境に適応しつつ、多様な身体的特徴を獲得し、変化に富む文化を発展させた。

縄文人の祖先も、そのような移動の波に乗って日本列島に到達したのであるが、その移動経路については分からないことも多い。なぜなら、当時の日本列島は大陸の一部だったからである。

ヒトの複雑な遺伝子の配列、特にヒト白血球抗原のハブロタイプに着目した研究が、分子人類学では盛んに行われているが、それによれば、、、

1.東南アジアからの北上ルート

2.中国南部からの北上ルート

3.中国大陸から東に向かうルート

4.北アジアからの南下ルート

の4つのルートが想定されている。

埴原氏によれば、縄文人は旧石器時代ではなく、新石器時代になってから日本列島に住み着くようになった可能性も否定できないという。

Sekkijin
そこで、埴原氏は縄文人や中国の新石器時代人など24集団の頭骨の主要計測値をデータとして、集団の類似度をクラスター分析という多変量解析にかけて、その樹状図(デンドログラム)を算出した。

この手法は心理学でも多用されている統計解析法であり、類似度の高い集団ほど隣り合わせのクラスター(まとまり)に分類されるようになっている。

その結果を見ると、まず縄文人を含むグループと、現代日本人(本土人)を含むクラスターに2分されていることが分かる。これをもっと細かく見れば、縄文人に一番近いのは、アイヌと沖縄の集団であり、つぎに太平洋民族が近い。

これに対し、現代の本土人に類似しているのは。中国の新石器時代人や北アジアの集団である。

そこで、さらに骨の形態を詳しく比較したところ、縄文人は中国大陸の新石器時代人に比べて古い特徴を持っていることが見出された。

それは、①身長が低いこと、②顔面が四角っぽいこと、③鼻の幅が広いこと、④眉間の隆起が強いことなどが縄文人の特徴なのである。

このような特徴は東南アジアの旧石器人のもっている形質を受け継いだものと考えられるため、彼ら縄文人は新石器時代ではなく、旧石器時代に日本列島に移住してきたことになる。

要するに、縄文人は日本列島で旧石器時代人から進化した人々だったという結論になるわけだ。その中でも、アイヌや琉球人は縄文人のDNAを受け継いで、それぞれ独自の文化を発展させていった末裔ということになる。

(続く)

引用文献:埴原和郎 「日本人の誕生ー人類はるかなる旅」 吉川弘文館,1996 

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